2017年05月

新選組は、祇園祭の宵々山の元治元年(1864)6月5日に池田屋か四国屋に勤皇派の志士が集まるとの情報を得て、 近藤は会津藩と京都見回組にその旨の使いを出し、応援を求め壬生から祇園会所に出向きそこで応援を待つのだが、 応援の姿はなく近藤はここで隊士を ...

池田屋は、三条小橋の畔にあった。三条小橋は、三条通の高瀬川に架かる小さな橋で、鴨川に架かる三条大橋に比して、三条小橋と呼ばれた。 三条小橋に建つ説明板には、 『江戸時代より、木屋町~河原町間の三条通は現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同 ...

ここから舞台は変わり、新選組を一躍有名にした「池田屋騒動」の話に移る。 河原町三条を東に入ってすぐのところに、新選組を一躍有名にした池田屋騒動があった池田屋の跡がある。 現在の景色からは、とても100数十年前にこんな凄惨な切りむすびがあったとは思えな ...

島原の出入口は、東の大門と西門とがあり、新選組の壬生屯所から来ると、西門から入ることになる。 西門は、東の大門のように門そのものは残ってなく、その跡に石碑が建っているだけである。 西門は享保17年(1732)に柱を立てただけの門が作られ、天保13 ...

輪違屋から、遠くない所に角屋(すみや)がある。角屋は揚屋で、今で云うお茶屋さん、太夫、芸妓は置かずに都度、置屋から呼んで客をもてなすのである。 輪ここも新選組との関わりは深く、芹沢鴨が最期に遊んだのがこの角屋である。 角屋は寛永18年(1641) ...

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