泉岳寺には大石内蔵助の銅像が建つ。
赤穂浪士の吉良屋敷への討ち入りは、大石を抜きにしては語ることは出来ない。
大石がいなければ、討ち入りは有り得なかったのである。
浅野内匠頭の刃傷が赤穂に伝わり、続いて切腹の沙汰が下りたことを知った大石は、城に家臣を集めるが、幕府と抗戦を主張する籠城派と、城を明け渡すべきとの恭順派とに分かれた。
この時、大石は城を枕に討死にしようとする藩士らに対し、潔く城前で切腹をして、決意のほどを示そうと、これに同意するものから神文(誓約者)を書かせ、その場を収めるのである。
大石は勿論、切腹などする気はなく、城を明け渡した後に、弟の浅野大学による、お家再興を考えていて、赤穂の城を明け渡すのである。
赤穂を出て大石は、家族と共に山科に隠棲する。
大石はまず浅野家再興を優先し、お家再興を主とする者と、吉良討つべしとする江戸の急進派の間で、どっちつかずの態度を取り、分裂を回避している。
年が明け元禄15年2月に、山科で会合を持ったが、この時は討ち入りに積極的な者は少なく、浅野大学の処置を待つこととしている。
しかし大石らの嘆願も空しく7月に、浅野大学は広島浅野本家へ閉門蟄居の沙汰が下り、浅野家再興の道が閉ざされることになる。
大石は京都の円山で、討ち入りを決する旨を告げるのである。
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