大石内蔵助の像に因んで、忠臣蔵(赤穂事件)のいきさつを紹介してきたが、ここで京の銅像に戻り大石について述べることにしよう。
まずは大石良雄を祭神とする「大石神社」から始めよう。
大石神社の最寄駅は京都市営地下鉄東西線の椥辻なのだが、ここから歩くと30分の距離があり、最寄駅とは言えないので、バスに乗り「大石神社前」で降りると、徒歩2分である。
大石神社は大石内蔵助良雄を祭神として祀る神社で、吉良邸に討入りをするまで、この辺りに住まいをした場所であり、その跡に「大石神社」が建てられているのである。
大石神社は、昭和10年(1935)に、浪曲師の吉田奈良丸を会長とした山科義士会によって創建されたものである。
駒札によると、
『この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。
大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。
閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利であったからであろう。この地でしばしば同志の会合を開いた。
はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。
しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集った。
大石は、同年5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。』
出典:【大石神社の駒札】より
ここに住んだ大石は、浅野家再興の望みが絶たれると、密かに吉良邸への討入りを決意するのだが、その思惑を秘匿するために、伏見の撞木町の遊郭や祇園の一力亭にて遊興の限りをつくし、吉良への討入の素振りは微塵もみせなかったのである。
山科のこの地から伏見や祇園には峠越えの必要があり、当時は遊ぶのも大変だったようである。
境内には天野屋利兵衛を祀る「義人社」がある。
公儀に捕まるが、赤穂浪士の討入りまでは「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割ることなく、拷問に耐えた商人である。
『赤穂浪士討入りに際し、必要な武器を調達した。大阪の本町橋に店をかまえ北組総年寄りの大阪の豪商であり「商売の神様」と言われ現在も(商売繁盛)の信仰があつい。』
出典:【義人社の駒札】より
大石神社(京都市山科区西野山桜ノ馬場町116)
京都駅から
▼JR琵琶湖線で「山科」下車(所要4分)、京阪バス「大宅」行きで『大石神社前』下車(所要15分) 「大石神社前」から、徒歩3分
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