2010年05月

池田屋騒動の一月後には「蛤御門の変」が起きている。 元治元年(1864)7月19日に、京都朝廷に長州が直訴しようとし、幕府・薩摩連合軍と武力衝突した事変で、禁門の変とも元治の変とも呼ばれる。 蛤御門は、京都御苑西側のほぼ真ん中位に位置している。 ...

三条小橋の池田屋から東にすぐ、鴨川に架かる三条大橋がある。池田屋の変の際に、ここでも乱闘があったようであり、 土佐藩士の石川潤次郎は池田屋に居る望月亀弥太に会いにいく途中、この橋の上で新選組と斬り合いとなり斬死している。 その時に付いたと思われる刀傷 ...

河原町三条を東に入ってすぐのところに、新選組を一躍有名にした池田屋騒動があった池田屋の跡がある。 現在の景色からは、とても100数十年前にこんな凄惨な切りむすびがあったとは思えない。唯、その昔を偲ぶかのように、石碑が一つ静かに建っているのみである。 ...

古高俊太郎が四条の住いで新選組に捕えられ、凄まじい拷問で長州が企てる騒乱を白状したのが、この前川邸である。 壬生は新選組の誕生した地であり、近藤勇ら13名の浪士で組織したのが始まりで、当初は八木邸に屯所を置くが、この旧前川邸も文久3年(1863)か ...

天誅組の変から1年の後に、明治維新を3年遅らしたという事変が起こる。 あの新選組を一躍世に知らしめた、三条小橋の「池田屋の変」である。この頃、龍馬は長崎で亀山社中を結成し、京にはいない。 その池田屋の変の端緒を開くのが、勤皇の志士、古高俊太郎の捕縛で ...

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