千馬三郎兵衛光忠(裏門:51才)は、直言実直の人物で融通が利かず、主君の内匠頭にも諫言をし、不興をかい閉門まで命じられ、浅野家を暇乞いする前に刃傷沙汰が起こり、嫌われていても、「君、君たらずとも、臣は臣」であるとして、同志に加わり吉良邸に討ち入っている。
岡野金右衛門包秀(表門:24才)は、忠臣蔵では吉良屋敷の絵図面を手に入れる人物として描かれている。
前原伊助の店で手代をしていた金右衛門は、本所松阪町の吉良屋敷を普請した大工の棟梁、平兵衛の娘、お艶と恋仲になり、色仕掛けで吉良邸の絵図面を手に入れるのだが、この頃にはお艶を愛していて、恋と忠義の狭間で悩むこととなるのだが、この絵図面のお蔭で討ち入りが成功すると描くのである。
しかし、これは後に面白おかしく創られた話であり、実際は堀部安兵衛、大石瀬左衛門、瀬田又之丞などが吉良邸の絵図面を入手しており、金右衛門が手に入れたという記述はないのである。
貝賀弥左衛門友信(表門:54才)は、赤穂藩取り潰しの後、大石と行動を共にし、いち早く浅野大学の広島浅野本家への預かりを知り、大石に知らせている。
大石はこれを受け、討ち入りを決め、京都の円山に同志を集め、決起を伝えるのであるのだが、同志に対し神文状を返すようにと、貝賀と大高に同志を回り神文を集めている。
討ち入りでは表門に属し、門の警戒にあたっている。
大高源五忠雄(表門:32才)は、赤穂藩士のなかでも、子葉の俳号を持つ名高い俳人であった。
忠臣蔵での名場面の一つ、討ち入りの前夜に竹売りとして吉良邸を探索していると、両国橋で偶然に宝井其角と出会うのである。
普段から句会で顔見知りの二人であったが、この時に其角が「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠み掛けると、源吾は「明日待たるゝ その宝船」と詠み返し、吉良邸討ち入りをほのめかすという場面があるのだが、実際はどうだったのだろうか。
これで吉良の屋敷に討ち入った四十七士の墓石の総てに手を合わせたのだが、泉岳寺の墓地にはもう一つ48人めの墓石が立っている。
その名は、萱野三平重実(28才)、この人物は討ち入りには参加していなのだが、赤穂義士とともに泉岳寺に祀られている。
浅野内匠頭の刃傷をいち早く赤穂へと知らせた人物であり、討ち入りにも加わろうと思ったが、父から吉良筋の家に仕官せよとせまられ「忠ならんと欲すれば、孝ならず」と、「晴れゆくや 日頃心の 花曇り」の辞世の句を残して自刃して果てるのである。
その供養の墓石が、四十八人めの志士として、泉岳寺に祀られているのである。
伊予松山藩松平家の下屋敷は、三田二丁目現在のイタリア大使館が立つ辺りにあった。
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