それと、伊予松山藩松平家の下屋敷に預けられた10名。
伊予松山藩は15万石で、家康の異父弟・松平定勝が桑名から移封されたもので、この当時は4代目の松平定直が藩主であった。
三田二丁目の、現在のイタリア大使館が立つ辺りにその屋敷があったのである。

01松平家mid
奥から、大石主税良金(裏門:16才)は、大石内蔵助の長男で、四十七士のなかでは最年少の16才であった。
討ち入りでは、裏門の大将を務め、主として剣の使い手を裏門に配し、戦いは裏門が激しく、若いながらも機転をきかし采配を振るったという。
堀部安兵衛武庸(裏門:34才)は、赤穂浪士のなかでも、名立たる使い手で、旧姓を、中山安兵衛という。
忠臣蔵で安兵衛が描かれる時には、高田馬場の決闘の場面は外せない。
安兵衛は、越後新発田藩で、祖父と義母に育てられるが、二人が亡くなると、叔父の菅野六郎左衛門を頼って、江戸に出る。
江戸では仕官もせず、いつも酒を呑んでいたことから「呑兵衛安」と呼ばれていた。
また、ある時に、喧嘩の仲裁をしたことから「喧嘩安」とも仇名されていた。
そんななかで、元禄7年(1694)2月に、叔父の菅野六郎左衛門が、村上庄左衛門、村上三郎右衛門、中津川祐見の3兄弟と高田馬場で決闘をすることになり、村上兄弟は助太刀22人を連れ、一方、菅野はただ一人で高田馬場に向かうのである。
その前日、菅野は中山安兵衛を訪ねるが不在で、決闘の子細を書状に書きとめ置いてくる。
決闘当日、帰った安兵衛がこの書状をみて、高田馬場へと駆けつけるのだが、時すでに遅く、叔父の菅野六郎左衛門はその場に斃れていた。
安兵衛は、その場に居た村上兄弟らを斬り伏せて、叔父の仇をとったのである。
この時に安兵衛に襷として自分のしごきを貸した娘が、堀部弥兵衛の娘「ほり」である。
このことで、堀部弥兵衛に見込まれて安兵衛は、堀部の家の婿養子となり、堀部安兵衛と名乗るようになる。
という話だが、実際は、菅野六郎左衛門は郎党2人とあわせ3人、村上3兄弟は6~7人の助っ人を頼み、9人だったと言う。
菅野が安兵衛の家に行った時に、留守だったことになっているのだが、実際は安兵衛は在宅で、即座に助太刀を引き受けたという。
また高田馬場では、18人斬りをしたというのだが、村上3兄弟の3人を斬っただけであり、18人斬りは後世の創りごとである。
討ち入りでは、大太刀をもって奮戦したという。
中村勘助正辰(裏門:46才)は、赤穂開城後も大石のもとで働き、この間は幕府から7人扶持を与えられている。