岡崎といえば、徳川家康誕生の地であり、水野家は徳川とは親密な関係であった。
その中屋敷が、JR田町駅を降りた芝5丁目辺りにあった。

01水野家跡mid
『この地周辺は元禄赤穂事件で、吉良邸討ち入りに加わった赤穂浪士四七人のうち九人が預けられた岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部です。
水野家は後に天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大尿で、水野監物忠之(1669~1731)は第四代藩主です。
元禄15年12月14日夜の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士はこの水野邸のほか、伊予松山藩松平家熊本藩細川家、長門長府藩毛利家に預けられました。
12月15日、御預けが決まると、水野家の江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として仙石伯耆守邸に遣わし、間重治郎光興ら九人を預かり、この屋敷に収容しました。
翌16年2月4日、九人はこの屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げました。
水野家は細川家とともに赤穂義士の取扱いが丁寧で世評もよく、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海の(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況を伝えています。』
                       出典:【水野監物邸跡の説明文】より