寺坂吉右衛門信行(裏門:38才)は、四十七士のなかで最も身分の低い足軽であり、士分ではない。
大石は寺坂の身分を考えて、同志に加えることをためらうが、寺坂の強い意志に負け同士に加えている。
大石らと共に吉良邸に討ち入るが、泉岳寺への引き上げの中には、寺坂の姿はなかったのである。
これが今もって、何故寺坂は消えたのかという疑問が投げかけられている。
忠臣蔵では、討ち入りの様子を瑤泉院(ようぜんいん)や広島の浅野大学に伝え、後世に語り残せとの大石から密命を受け、姿を消したのだと描かれているのだが・・・
まず寺坂は本当に討ち入りに参加したのかとの疑問
大石らが寺井玄渓に出した書状には、14日には寺坂は吉良の屋敷には来なかったのだとあり、原惣右衛門も堀内伝右衛門に対し、寺坂は討ち入りの前に逐電したと、告げているのだが、これは寺坂が幕府の追及から逃れるために、討ち入りに加わっていないと述べたのであろう。
いずれにしても寺坂は討ち入りには加わっており、吉良の首級をあげた後に、姿を消したというのが、真実ではないかと思うのである。
それでは寺坂は逃げたのかという疑問
寺坂の主、吉田忠左衛門が「寺坂のことは何も言うことはない。一人が欠落したということだ。」と述べているのだが、討ち入りを懇願した寺坂が自ら逃げたとは思えない。
しからば、大石の密命を受けてそれを果たすために姿を隠したのかというと、それも怪しい。
自分的には、大石が討ち入りの中に士分ではなく足軽が居たという事に、武士の秩序と幕府への名目から、あえて寺坂に密命を与え、この場から逃がしたのではないかと推察するのである。
寺坂は一生を全うし83才までを生き、泉岳寺の寺坂の墓石は供養塔であり、戒名には切腹を示す「刃」の文字は刻まれていないのである。
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