茅野和助常成(裏門:37才)は武芸に秀で、刀は自眼流の居合いを、また討ち入りの際には半弓を持って臨んでいるので、弓にも秀でていたと思われる。
間瀬孫九郎正辰(裏門:23才)は部屋ずみで、父・間瀬久太夫と共に吉良邸に討ち入っている。
村松三太夫高直(裏門:27才)も部屋ずみで、父・村松喜兵衛と共に吉良の屋敷に討ち入っている。
矢頭右衛門七教兼(表門:18才)は、大石主税の次に若く父の遺志を継ぎ、吉良屋敷に討ち入っている。
右衛門七の父、矢頭長助は赤穂城が明け渡された後も、大石のもとで働いたが、病で身を伏せるようになり、山科会議や円山会議などに、子の右衛門七が代わって出席をしている。
病が重くなった父は、右衛門七を呼んで、自分の意思を継いでくれるようにと言い残し、亡くなるのである。
ここで忠臣蔵では、右衛門七の討ち入りの邪魔にならぬようにと、残った母が自害をするという場面となるのだが、実際には、母と妹3人がいて、これを知人に預けたのちに、江戸に下り吉良の屋敷に討ち入っている。
奥田貞右衛門行高(裏門:26才)は部屋住みで、近松家から奥田家の婿養子となり、義父・奥田孫太夫と行動を共にしている。
兄の近松勘六も討ち入りに加わっている。
間十次郎光興(表門:26才)は、父・間喜兵衛光延や弟・間新六と共に、吉良の屋敷に討ち入っている。
赤穂では名の知れた剣客で、江戸の堀内道場では高弟に名を連ね、槍をとっても他にひけはとらなかったと言う。
討ち入りでは、炭小屋に隠れた吉良上野介が出てくるところを槍で突き、その後に武林唯七が切り捨てた。
泉岳寺にて、吉良の首級を内匠頭の墓前に備え、一番槍の間十次郎が、最初に焼香をしたという。
しかし何度も言うように、吉良上野介が隠れたのは、台所の炭俵の後ろであり、忠臣蔵での吉良を討ち取る場面は、後世の創り事なのである。
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