泉岳寺の赤穂義士の墓所に入ってすぐ右側に並ぶのが、三河岡崎藩水野監物の芝中屋敷に預けられた9名の墓石である。
入ってすぐが、神崎与五郎則休(表門:38才)で、大高源吾、萱野三平と並んで、浅野家の三俳人と呼ばれ、赤穂浪士の中で酒豪として知られている。
忠臣蔵では、神崎が江戸に向かう東下りの段では、丑五郎という馬子に絡まれ、神崎が断ると、さらに「侘び証文を書け」と無理難題をふりかけてきた。
神崎はこれに応じ侘び証文を書き、丑五郎に渡すのである。
後に、吉良への討ち入りの浪士の中に神崎与五郎がいる事を知り、丑五郎はその身を詫びて出家し、神崎を弔うという話である。
同じような話が、大高源吾にもあり絡む馬子の名は国蔵である。
大高が書いた「侘び証文」が残っているというのだが、どうやら後になって書かれたものであるらしい。
江戸に入った神崎は、上杉家の中屋敷近くで、美作屋善兵衛として扇子屋を始め、後に本所の吉良邸近くで、小豆屋善兵衛として吉良の屋敷を探っている。
三村次郎左衛門包常(裏門:37才)は、7石2人扶持の台所役人で、士分としては最も身分の低い人物であった。
横川勘平宗利(表門:37才)は、討ち入りが決まると同士達に神門を返させることになるのだが、横川は江戸に居る同志に対して、神門返しを任されている。
横川は江戸の叔母の家で世話になっていたのだが、叔母は勘平を養子に出すことを考えており、そのことを大石に相談すると、放蕩三昧をして愛想尽かしされればと指南を受け、飲めない酒を飲み、遊郭通いをするのだが、一向に愛想尽かしされずに、とうとう討ち入りの日を向えるが、叔母が怪しんで外に出してくれない。
そこで下女に酒を買いに行かせ、その後を追っかけるようにして家を出ると、そのまま吉良の屋敷に向かうのである。
すでに同志は一堂に会しており、一番最後に駆けつけた横川は、そのまま梯子を昇り、吉良の屋敷に一番乗りをするという、本当のような嘘の話がある。
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