長府藩は長州藩毛利家の支藩で、営団地下鉄日比谷線「六本木駅」の、港区六本木6丁目、現在の六本木ヒルズの辺りにあったという。

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長府藩毛利家上屋敷跡には六本木ヒルズが建っており、ヒルズ内の毛利庭園が往時を偲ばせ、ひょたん池の傍らに跡地を示す標柱がある。
『この地は、吉良邸討入に加わった元赤穂藩士四十七人のうちの十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ケ窪上屋敷の一部である。
中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(三万六千二百石)である。
赤穂事件当時の三代藩主毛利綱元(1650~1709)は、五十六年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集「七石集」を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。
元禄15年(1702)12月15日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を請取人(うけとりにん)として江戸詰藩士三百余人を大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門二丁目八)に遣わした。
岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、間新六光風、村松喜兵衛秀直、杉野十平次次房、勝田新左衛門武堯、前原伊助宗房、小野寺幸右衛門秀富の十人の日ケ窪の江戸屋敷に収容された。
元禄16年(1703)2月4日、幕府の裁きにより十人は、使蟠斎藤次左衛門利常(千七百石)、目付鈴木次郎左衛門義一(五百石)の立会のもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。
この時、本藩である長州(萩)藩からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。』
                      出典:【毛利甲斐守邸跡の説明文】より