前原伊助宗房(裏門:40才)、伊助の出自も随分と脚色され、前の名を原田次郎吉といい、ある時、下坂十太夫という侍と口論となり、試合で十太夫を負かしてしまい、その事で下坂家は断絶となってしまう。
後に赤穂藩の月岡十郎左衛門に仕えるが、月岡が斬り殺されると、主の仇討ちとして相手の侍を討ち果たし、それが評判となり士分に取り立てられている。
その時に名を前原伊助と改めている。
実はこの話には後日談があり、
「乞食の姉弟が苛められているのを助け、面倒をみることになる。
聞けば親の仇の原田次郎吉なる人物を探しているという。
前原は仇の身を隠して姉弟を育てるが、討ち入りの前に姉弟に真実を知らせる手紙を残し、切腹の当日、二人を呼び親の仇として首を刎ねさせるのである。」
という話だが、これは全くの創り事で、前原伊助は、浅野家家臣の前原自久の長男として、江戸上屋敷で生れているのである。
また前原は、本所松阪町の吉良屋敷の裏門近くに「米屋五兵衛」として住み、吉良家を探っている。
忠臣蔵では、吉良邸を探っている事を小林平八郎に察知され、拷問を受ける場面があるのだが、これも後世の創り事である。
小野寺幸右衛門秀富(表門:28才)は、大高家から小野寺家に養子として入り、赤穂事件では養父・小野寺十内と行動を共にしている。
大高源吾は実兄である。
討ち入りには太刀を振るい、真っ先に吉良屋敷に切り込んでいる。
邸内に並べられた弓の弦を切り使えなくするという場面は、討ち入りの始めに出てくるのである。
以上10名が長府藩毛利家に預けられた、赤穂義士である。
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