泉岳寺墓所の中央に立っている墓石が、長府藩毛利家・毛利甲斐守綱元の江戸下屋敷に預けられた赤穂義士である。
この藩は赤穂義士に対しては厳格に接し、当初は罪人扱いをしていたようである。
この屋敷に預けられたのが、
岡島八十右衛門常樹(表門:38才)、20石取りの札座奉行を務め、大石と共に赤穂城の明け渡しに尽力をしている。
吉田沢右衛門兼定(表門:29才)は部屋住みの身分で、父・吉田忠左衛門ともどもに討ち入っている。
赤穂浪士のなかには、吉田父子のように父子で討ち入った者が多くいる。
武林唯七隆重(表門:32才)、その出自は祖父が中国人・猛二寛であるという。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵した戦で捕虜となり、日本に連行されるが、その知識をもって毛利家に、後に浅野家に仕えるようになり、唯七はその孫に当たるという。
唯七もまた江戸急進派にの一人で、短気で粗忽者だとして描かれている。
討ち入りでは屋内に突入し、1時間を過ぎても吉良の姿を見つけらず、夜も白む頃に、炭小屋を見つけると、中から二人が出てくるところを斬り倒すと、さらに白髪の老人が脇差を抜き飛び出してきた。
それを、間十次郎が槍にて一突きし、続いて武林唯七が斬り捨てるのである。
この老人こそが吉良上野介義央であり、間十次郎が首を刎ねたのである。
実際には、吉良が隠れたのは炭小屋ではなく、台所の炭俵の後ろだったようで、間や武林らに滅多打ちにされて殺害されたという。
倉橋伝助武幸(表門:34才)も江戸急進派の一人である。
間新六光風(裏門:24才)は、父と兄と共に討ち入った人物であり、江戸時代も100年が過ぎると、切腹の作法も変わり、腹を切ることなく短刀に手を掛けると、介錯人が首を刎ねたという。
しかし新六は短刀を手に取ると、即座に腹に突き刺し横に腹を掻っ捌いたといい、赤穂義士のなかで唯一人、腹を切った人物である。
村松喜兵衛秀直(表門:62才)は、江戸詰めの藩士で、医者として本所に住み吉良家の動向を探っていて、子の村松三太夫と共に討ち入っている。

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