龍馬さんが生きた頃の土佐藩の藩主は15代・山内豊信(とよしげ)で隠居して、容堂と名乗っている。

01生誕の地min
容堂は分家南邸の長男で、父は山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)、母は側室の、扶持大工、平石氏の娘である。
普通、藩主の子は江戸で生まれ育つが、豊信は高知城下の城からすぐの、追手門を出て、東に、日曜市の出る追手筋を3分ほど歩くと、天理教高知大教会の築地塀を背にして「山内容堂公誕生之地」の石碑が建っている場所で生まれている。(高知市追手筋2丁目)
本来なら藩主にはなりえない身分なのだが、土佐山内家で相次いで二人の藩主が急逝したことから、22才で15代藩主となる。
「福井藩主・松平春嶽」「宇和島藩主・伊達宗城」「薩摩藩主・島津斉彬」と共に、幕末の四賢侯と称され幕政に参画をし、内では、吉田東洋を抜擢し藩政改革を進める。
嘉永6年((1853)にペリー艦隊が浦賀沖に現れると、海防強化を幕府に提案し、徳川14代将軍の継嗣問題では、水戸の一橋慶喜を押すのだが、紀州の徳川慶福(14代将軍家茂)が将軍になると、大老井伊直弼による安政の大獄により、松平春嶽らと共に蟄居を命じられることになる。

02南家邸跡min
容堂の誕生地からお城のほうに戻り、堀ばたを高知県庁に向い、県庁前の通りを南に、電車通りを渡ると「高知県民文化ホール」があり、その前が鷹匠公園である。
この公園に「山内容堂公邸跡」の石碑が建っている。容堂の父・山内豊著はこの辺りに住み、南屋敷とも呼ばれた。(高知市鷹匠町2丁目:『県庁前』下車南に、徒歩3分)
容堂が蟄居謹慎の間、土佐藩では尊王攘夷を唱えた武市半平太率いる「土佐勤皇党」が、容堂の片腕であった吉田東洋を暗殺し、16代藩主・山内豊範を担ぎ、土佐藩を急進的勢力としつつあった。
しかし容堂はこれを好まず、文久3年(1863)8月の政変で長州が京から追われるたのを機に、土佐勤皇党の主な党員を捕らえ、武市半平太を切腹に追いやるのである。
この時期、容堂は外には「静」、内には「動」であったが、慶応3年(1867)10月に「大政奉還」を15代将軍慶喜に建白し、徳川の時代に幕を引くのである。

03容堂公min
大政奉還の狙いは、諸大名連合による政治体制だったのだが、慶応3年12月、薩摩・長州の主導により、王政復古の大号令が発せられ、小御所会議で大失言をし、岩倉具視や大久保利通に揚げ足を取られ、徳川家を擁護できなかった。
維新後は、自らを「鯨海酔候」と称し、酒東京に住んで妾を十数人も囲い、酒と女と詩に明け暮れ、連日、両国・柳橋で豪遊し、男冥利につきる生活を送っている。
龍馬と慎太郎が斬殺された為に、武市瑞山を切腹させたことが、土佐藩に薩長に対抗できる人物がいなくなり、新政府の実権を奪われたと悔やんだという。
酒の飲みすぎで46才で脳卒中で生涯を終えるが、その墓所は高知にはなく、土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井4丁目)にある。
境内には、「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」と題された銅像が建っている。
酒を好んだ容堂公らしく、片手に盃をかたむけながら悠然とした姿の坐像である。
後の品川下屋敷での暮らしぶりを見ると、どうもそのようには思えないのであるのだが。
しかし自らが大政奉還を建白したにもかかわらず、維新後は本当に慶んで盃を傾けていたのだろうか。