肥後熊本藩細川家の下屋敷は、泉岳寺の裏、高輪1丁目あたりにあった。
細川家は赤穂義士が預けられた四家のなかで17名と一番多くの義士を預かっているのだが、その対応は他家と比べて赤穂義士には好意的であった。
午後10時に引き渡しの命を受け、細川家の下屋敷に着いたのは翌、午前2時を過ぎていたのだが、当主の細川綱利は赤穂義士が屋敷に着くまで起きていて、四家のなかで一番最初に義士に謁見した当主であった。
切腹までの細川家の赤穂義士への対応は真摯たるもので、大石たちの方が、もう少し質素にして欲しいと言わしめたほどだったと言う。
屋敷跡には、
『この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた、肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。
赤穂事件とは、元禄14年(1701)3月14日におこった殿中刃傷事件と、その翌年12月14日の夜から15日にかけての吉良邸討ち入り、及びその処分など一連の事件をいう。
当時の藩主五代綱利は、12月15日老中稲葉丹後守正往(まさゆき)(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕籠と予備として五挺の駕籠を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。
引渡を受けたのは午後10時頃で、この地に到着したのは午前2時過ぎであった。
この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに、上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。
細川綱利は、大藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
元禄16年(1703)2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽(まさは)と御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。
切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。
切腹の座には畳三枚(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。
大石内蔵助は安場一平(子孫は明治維新に功有り男爵を授けられた)の介錯で切腹した。
大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。』
出典:【大石良雄外十六人忠烈の跡】より
の説明文が掲げられている。

コメント
コメント一覧 (2)
拍手です。
youhobito
が
しました
罪人扱いをした藩には、江戸庶民の風当たりは強かったようです。
youhobito
が
しました