河原町通を御池までくると、通りを越した右側に「京都ホテルオークラ」が見えてくる。
この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。

長州藩は戦国時代、毛利元就のときに中国、山陰地方を併せ持つ大大名となる。
後に、毛利輝元が豊臣秀吉に仕え、120万石という石高を受領している。
ところが、関ヶ原の合戦では西軍の総大将に担ぎ出され、大坂城に入るものの西軍が大敗。
関ヶ原で一門の小早川秀秋の裏切りや吉川広家の内通など家康側に貢献し、家康に敵意はなく所領安堵の約束があったにもかかわらず・・・
関ヶ原の責任を問われ、周防(山口県の南半分)と長門(山口県の西半分)の二国に押し込められ、石高も36万9千石となっている。
居城地も日本海側の萩とするよう命じられ、以来倒幕を暗黙の国是とし、時を経て倒幕の道を歩み、明治維新を迎えることとなる。
長州藩邸跡の碑文には、
『高瀬川一之舟入りの南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩(山口県)毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。
藩邸は、初め南北二か所に分かれ、北側屋敷は表口三十九間(約70メートル)、裏行三十一間(約56メートル)、南側屋敷は表口三十間(約54メートル)、裏行八間(約14メートル)に及んだ。
元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中の延焼し、数日間にわたって燃え続けたという。
明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が摂理され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた。』
出典 長州藩邸跡の碑文

押小路を河原町通までくると、ホテルオークラの建物がある。
この場所はもと長州藩の屋敷があった所で、そのホテルの一画(河原町通に面した場所)に桂小五郎の銅像が建っている。
桂小五郎は、嘉永2年(1849)に吉田松陰の門を叩き、江戸にて斉藤弥九郎に剣術を学び、神道無念流の免許皆伝を受ける。
文久2年(1862)29才頃から本格的に尊王攘夷活動を始め、他藩との折衝や公卿との応接に当たる。
池田屋の変では、偶々早く行ったため一旦長州屋敷に戻っていた時に事変が起こり、難を逃れたという説と、新撰組に踏み込まれた時は既に池田屋から屋根伝いに逃がれ、対馬屋敷に潜んでいたという説があるが、幕末の頃の桂小五郎は、逃げの小五郎といわれ、事が起こる前にいつもその場所には居ず、難を逃れていたと云われているが、真実は定かではない。
この当時、桂の身を案じ、かばった三本木の難波屋の芸妓幾松(小沢松子)との話は世に名高い。後に、幾松は木戸松子として小五郎の妻となる。
明治10年(1877)2月に西南の役が起こると、それを案じ兼ねてからの脳発作が悪化し、5月19日に明治天皇がこの地に木戸を見舞われるも、「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を残し、5月26日45才にてこの世を去るのである。
この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。

長州藩は戦国時代、毛利元就のときに中国、山陰地方を併せ持つ大大名となる。
後に、毛利輝元が豊臣秀吉に仕え、120万石という石高を受領している。
ところが、関ヶ原の合戦では西軍の総大将に担ぎ出され、大坂城に入るものの西軍が大敗。
関ヶ原で一門の小早川秀秋の裏切りや吉川広家の内通など家康側に貢献し、家康に敵意はなく所領安堵の約束があったにもかかわらず・・・
関ヶ原の責任を問われ、周防(山口県の南半分)と長門(山口県の西半分)の二国に押し込められ、石高も36万9千石となっている。
居城地も日本海側の萩とするよう命じられ、以来倒幕を暗黙の国是とし、時を経て倒幕の道を歩み、明治維新を迎えることとなる。
長州藩邸跡の碑文には、
『高瀬川一之舟入りの南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩(山口県)毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。
藩邸は、初め南北二か所に分かれ、北側屋敷は表口三十九間(約70メートル)、裏行三十一間(約56メートル)、南側屋敷は表口三十間(約54メートル)、裏行八間(約14メートル)に及んだ。
元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中の延焼し、数日間にわたって燃え続けたという。
明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が摂理され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた。』
出典 長州藩邸跡の碑文

押小路を河原町通までくると、ホテルオークラの建物がある。
この場所はもと長州藩の屋敷があった所で、そのホテルの一画(河原町通に面した場所)に桂小五郎の銅像が建っている。
桂小五郎は、嘉永2年(1849)に吉田松陰の門を叩き、江戸にて斉藤弥九郎に剣術を学び、神道無念流の免許皆伝を受ける。
文久2年(1862)29才頃から本格的に尊王攘夷活動を始め、他藩との折衝や公卿との応接に当たる。
池田屋の変では、偶々早く行ったため一旦長州屋敷に戻っていた時に事変が起こり、難を逃れたという説と、新撰組に踏み込まれた時は既に池田屋から屋根伝いに逃がれ、対馬屋敷に潜んでいたという説があるが、幕末の頃の桂小五郎は、逃げの小五郎といわれ、事が起こる前にいつもその場所には居ず、難を逃れていたと云われているが、真実は定かではない。
この当時、桂の身を案じ、かばった三本木の難波屋の芸妓幾松(小沢松子)との話は世に名高い。後に、幾松は木戸松子として小五郎の妻となる。
明治10年(1877)2月に西南の役が起こると、それを案じ兼ねてからの脳発作が悪化し、5月19日に明治天皇がこの地に木戸を見舞われるも、「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を残し、5月26日45才にてこの世を去るのである。
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