泉岳寺に最初に行ったのは小学4年の夏休みの時で、勿論、新幹線などなく東海道本線を長いこと汽車に乗って東京に行ったことが記憶に残っている。
従って今回が2回目となるのだが・・・都営浅草線の泉岳寺の駅を地上に出ると、2分で泉岳寺に着く。
その昔には泉岳寺まで都電が走っていたように思うのだが、遠い記憶のかなたである。
泉岳寺の景色が思い出せないまま、始めてみるような感じがしたのだが、泉岳寺の縁起によると、
萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に接する外桜田の地に今川義元の孫と云われる、、門庵宗関和尚(1546~1621年)を迎えて開山される。
当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。
寛永18年(1641)の大火により伽藍が焼失、三代将軍家光(1604~1651年)の命により、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の五大名が、現在の高輪泉岳寺を再建する。
江戸時代には、青松寺、総泉寺と共に曹洞宗の江戸三ヶ寺の一つに数えられ、曹洞宗の行政面の一翼を担った。
泉岳寺の名を一躍知らしめたのは、ここが赤穂浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年12月14日の義挙(赤穂事件:勅使饗応の指南役・吉良上野介への積る遺恨に耐えかねて、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良に切り掛り、浅野は即日切腹、吉良はお咎めなしという幕府の裁断に異義を唱え、赤穂の元藩士四十七士が吉良家に討ち入った事件)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討ち入り五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って、一層多くの参拝者が訪れるようになった。
現存する山門は天保年間の建立で、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央の天井には龍蟠が嵌め込まれている。
明治の廃仏毀釈で荒廃、関東大震災で被災するも寺域の拡張・整備に務め、明治から令和に至る隆昌期が築かれる。
太平洋戦争では、山門と義士館(現講堂)以外の諸堂が焼失するが、昭和28年(1953)に本堂が再建されている。
昔は線香の煙が絶えない所だったのだが、現在では忠臣蔵や赤穂浪士と言ってもそれが判る若い人達がどれほどいるのだろうかと思うと、何か寂しい思いもするのだが・・・
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