上七軒でバスを降り、七本松通を北に歩くと「大報恩寺」がある。
大報恩寺は山号を「瑞応山」と言い、真言宗智山派の寺院で、承久3年(1221)に義空上人がこの地に小堂を建てたのが始まりといわれ、本尊が釈迦如来であることから、通称釈迦堂といい、嵯峨の釈迦堂と区別するために、千本釈迦堂と呼ばれている。
千本釈迦堂の名は、行快作の本尊が釈迦如来坐像であり、近くに千本通が通っていることや、千本の卒塔婆(そとば:お墓の後ろに立てる板)が通りに立てられていた、また千本の松並木があったなど、諸説ある。
創建当時は、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として多くの堂塔伽藍があったが、応仁の乱や度々の火災でその殆どが焼失してしまったのだが、唯一、応仁の乱でも焼けなかった本堂は、創建当時のままに残っており洛中最古の仏堂建築であり、国宝に指定されている。
千本釈迦堂の境内には、阿亀(おかめ)さんの塚がある。
阿亀さんの話は聞いたことがあったのだが、いつも福笑いのお多福とイメージがかぶさってしまい、「おかめ」でなく「おたふく」だと思っていた。
阿亀さんは、千本釈迦堂の造営にあたり、大工の総棟梁として選ばれた長井飛騨守高次の妻で、この高次が一本の柱を短く切ってしまい心優していたところ、阿亀さんが斗栱(ますぐみ)をしたらと助言をしたことによって、安貞元年(1227)12月26日に無事上棟式を向かえることが出来たが、これより前に阿亀は女の助言で事が成ったと世間に知られたらと、自らその命を絶ってしまったのである。
夫、高次はその死を悲しみ、阿亀の名にちなんだ福面を御幣につけて飾り、妻の冥福と本堂の完成を祈ったといわれ、この阿亀の話を聞いた人達が、阿亀の菩提を弔うために、釈迦堂の境内に宝筐院搭を建て、誰いうともなくこの搭をおかめ塚と呼ぶようになった。
その隣には、昭和54年(1979)におかめの像が建立された。また春には本堂の前に、阿亀桜と名付けられた、枝垂れ桜があり春にはその枝に一杯の花をつけ、春の華やいだ雰囲気を写しだしている。
駒札には、
『鎌倉時代の初めの西洞院一条上るの辺りで、長井飛騨守高次という洛中に名の聞えた棟梁とその妻阿亀(おかめ)が住んでいました。
そのころ偽空上人(藤原秀衛の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、高次が総棟梁に選ばれ、造営工事は着々と進んでいきましたが、高次ほどの名人も千慮の一失というべきか、信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまったのです。
心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は、古い記録を思い出し「いっそ斗栱(ときょう)をほどこせば」というひと言、この着想が結果として成功をおさめ、見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。
安貞元年(1227)12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、此の日を待たずして、おかめは自ら自刃して果てたのです。女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
高次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、またこの阿亀の話を伝え聞いた人々は、貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して菩提を弔うため、境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなく、これを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。
現在京都を中心として使用されている「おかめの面」の上棟御幣は、阿亀の徳により「家宅の火災除け」家内安全と繁栄を祈って始められたものです。
また、おかめの徳は「災を転じて福となす」というところから、建築成就工事安全、女一代危難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として、全国を風靡するところとなっています。
なお昭和54年の春、有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ「おかめ信仰」の輪が一層広がっております。』
出典:【おかめ塚の由来の駒札】より
千本釈迦堂(京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町)
京都駅から
▼「B2」乗り場から50統で『上七軒』下車(所要34分)
「上七軒」から、徒歩3分
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