五条大橋の西側、中央分離帯に弁慶と牛若の出合いが石像で再現されているのだが・・・

01弁慶と牛若mid
五条の大橋が、何故、弁慶と牛若の千本目の戦いの橋として知られるようになったかというと、尋常唱歌(じんじょうしょうか:明治の時代に小学校の教科書に載った歌)の「牛若丸」で、「京の五条の橋の上 大の男の弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる」とあるように、五條の大橋の上で「前やうしろや右左 ここと思えば 又あちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」とあるように、鬼の弁慶が負け、牛若丸の家来となり牛若丸(義経)の最後まで供をするのだが、その出会いの場所として、広く知られるようになったのである。

02松原橋mid
しかしこれには明らかな矛盾があり、牛若丸の時代にはまだ五条大橋は架かっておらず、五条通は二筋北の、松原通に架かる橋(現在の松原橋)だったのである。
もともと五条の大橋は、現在の「松原橋」であり、平安京ではこの通りが五条大路であり、ここに架かる橋が「五条大橋」だったのである。
弁慶と牛若丸との出会いも、この五条の橋(現、松原橋)の上で戦ったのだろうかというと・・・

03五条天神宮mid
ところが弁慶と義経の出会いはどちらの橋でもなく、松原通(旧五条大路)にあった「五條天神宮」こそ弁慶が999本の刀を奪い、後1本で満願成就の時に出会ったわっぱが牛若丸、その出会った処が、実は五條天神の森であり、その森のあとに「五條天神宮」が建っているのである。
駒札(五条天神宮(義経」・弁慶出合いの場所)によれば、
『当社は古くを「天使社」といい、平安朝期以来の歴史を持ち、上下り尊崇を受けてきた古社である。
「今昔物語」「徒然草」などにも記載が見られるが、その名が著名になったのは、牛若丸と弁慶の最初の出会いが、当社の近〇だったことを記した「義経記」の文とそれに取材した能楽「橋弁慶」からである。
この五条天神に〇刻詣をした弁慶が、笛を吹きつヽ歩く牛若を見つけ、その腰の黄金造の太刀を奪いにかかる所がら、両者の争闘が始まる。敗北した弁慶が義経の家来となる機縁は当社に由来する。
童謡の「五条橋」は鴨川に架かっていた橋(現、松原橋の位置)だが、当社の東側を流れていた西洞院川の橋だという伝説もある。
秀吉によって橋が移されてから、平安朝以来の「五条大橋」の名も消え、東方の松並木から「松原通」となって現在に至る。』
                         出典:【五条天神宮の駒札】より

五条大橋(京都市下京区材木町五条通)
京都駅から
▼「A1」乗り場から4系統、または「A2」乗り場から205系統で『河原町五条』下車(所要10分)
 「河原町五条」から、徒歩2分