「京都駅前」から、208系統の左回りに乗り、「西大路八条」でバスを降りると、西大路通を挟んで東に「若一神社」がある。
ここに「平相國平清盛公」の銅像が建っている。
平清盛は平家物語によれば、先祖は桓武天皇第五皇子、一品式部卿葛原(いっぽんしきぶきょうかずらはら)親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の嫡男という。
永久6年(1118)に京で生まれる。
鳥羽天皇の勅許により、父・忠盛が武士として初めて昇殿を許される。(長承元年(1132))
仁平3年(1153)父・忠盛が死去し、平氏の棟梁となる。
保元の乱と平治の乱に勝利し、政権を掌握する。
保元の乱と平治の乱に勝利し、政権を掌握する。
保元の乱 保元の乱をゆく : 京都より愛をこめて
平治の乱 平治の乱をゆく : 京都より愛をこめて
を参照
清盛自身の栄華を極めるのみならず、一門共々栄進出世をし、後白河上皇と時子の妹・慈子との間に皇子(後の高倉天皇)が生まれ、関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせるなど、天皇や上皇、公家との間に姻戚関係を築いてゆく。
仁安3年(1168)51歳の時に熱病におかされ、存命のために出家入道する。
その故に熱病たちどころに癒えて、天命を全うする。
出家後も栄耀は尽きず、人の随う事は、吹く風の草木をなびぁす如く、世の仰げる事も、降る雨の国土を潤すに同じ、平時忠をして、「この一門にあらざらん者は、みな人非人なるべし」と言わしめている。(平家物語より)
病から復帰すると、福原(現在の神戸)に別荘を造り、日宗貿易の拡大に力を入れる。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と平家物語の冒頭にあるように、栄華は長く続かず、平家に不満を持つ者が現われてくる。
治承元年(1177)、西光、藤原成親、俊寛などで鹿ケ谷の陰謀が発覚し、西光は斬首、俊寛は鬼界ケ島に流罪となる。
治承3年(1173)に長男・重盛が亡くなると、後白河法皇との対立は深まり法皇を幽閉するのである。
治承4年(1180)に高倉天皇を譲位させ、3歳の安徳天皇を即位させるのである。生母は清盛の娘・徳子(建礼門院)である。
後に壇ノ浦で平家滅亡と共に、入水するとは思いもしなかっただろうに、歴代天皇の中で在位5年と最も短命で、戦乱で命を落とした唯一の天皇である。
同じ年に、後白河法皇の第3皇子・以仁王が挙兵をするが、宇治橋の戦いに敗れ失敗に終わる。
京都から福原へ遷都するが、僅か6ケ月で京に都を戻している。
以仁王の令旨(りょうじ)に呼応して、伊豆では源頼朝が、信濃では木曽義仲が平家追討の軍をあげるのである。
清盛は源頼朝討伐の軍を差し向けるが、富士川にて鳥の羽音に驚き戦らしい戦もせず逃げ帰ったことに歯ぎしりをしながら、
翌、治承5年(1181)2月28日、清盛は病に斃れるのである。
平家物語によれば、
「入道相國、病付き給へる日より、湯水も喉へ入れられず。
身の内の熱き事は、火を焚くが如し。臥し給へる所、四五間が内へ入る者は、熱堪へ難し。
入道相國、今はの時にもなり、苦しげな息の下で、
「当家は、承相(しょうじょう)の位に至り、栄華すでに子孫に残す。
今生の望は、一事も思い置く事なし。
ただ思い置く事とては、兵衛佐頼朝が頭を見ざりつる事こそ、何よりも本意(ほい)なけれ。
仏事孝養をもすべからず。堂塔をも立つべからず。
急ぎ討手を下し、頼朝が頭を刎ねて、我が墓の前にかくべし。
それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ。」
と宣い、3月4日に、悶絶びゃくちして、遂にあづち死(しに)給ける。
7日の日、愛宕(おたぎ)にて煙になり奉り、骨は摂津國の経の島にぞ納めける。
さしも、日本一州に名を揚げ威を振ひし人なれども、身は一時の煙となって、都の空へ立ち上り、骸(かばね)はしばしばyすらひて、濱の眞砂に戯れつつ、空しき土とぞなり給ふ。」とある。
若一神社(京都市下京区七条御所ノ内本町99)
京都駅から
▼「B3」乗り場から208系統で『西大路七条』下車(所要16分)
「西大路七条」からすぐ
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