ここからは源氏物語を書いた紫式部に関わる銅像を巡ってみよう。
源氏物語は平安時代の中期(11世紀の初め)に書かれた長編小説である。
作者は、一条天皇の中宮、藤原彰子に仕えていた女房、紫式部だと伝えられている。
源氏物語は五十四帖からなり、構成上から三部に分けられ、
一部は、一帖「桐壺」から三十三帖「藤裏葉」までで、光源氏の誕生から栄華を極め愛を遍歴する様が描かれる。
二部は、三十四帖「若菜上」から四十一帖「幻」までで、光源氏の苦悩や老いが描かれる。
三部は、四十二帖「匂宮」から五十四帖「夢浮橋」までで、光源氏亡き後の子や子孫たちの恋と人生が描かれる。
宇治が舞台となる、四十五帖「橋姫」から五十四帖「夢浮橋」の十帖は「宇治十帖」と呼ばれている。
源氏物語は実話ではないのだが、光源氏を通して恋愛や栄華と没落、権力闘争などが赤裸々に描かれていて、平安貴族の様子が感じられるのである。
宇治橋の西の端に、紫式部の像が建つ。
紫式部の生涯は謎に包まれ、本名も定かではないのだが、天元2年(979)に生まれ長和5年(1016)、40才に満たずに亡くなったとされている。
紫式部は一度結婚をし一子「賢子」を設けるが、夫の藤原宣孝が亡くなった後の長保元年頃(1000)に源氏物語を書き始めたと云われている。
寛弘2年(1005)に、ときの左大臣藤原道長に請われ、一条天皇の中宮、彰子(道長の娘、院号は上東門院)の女房兼家庭教師として仕えることとなる。
その間にも源氏物語は書き進められ、全54帖にのぼる膨大な王朝文学が完成するのである。
小倉百人一首のなかに、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれしに 夜半の月かな」との一首が採用されている。
美人だったかは知らないが、才媛であったことは間違いないようである。
銅像の駒札には、
『紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。
『紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。
ここ宇治川の畔り一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才媛とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ性格にはわかっていない。
999年頃藤原宣孝と結ばれたが宣孝の死後寡婦生活の日を送り「源氏物語」の執筆はこの頃から始められたらしい。
やがて今をときめく左大臣藤原道長から一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として使えるようにと召し出され、宮仕えの身となる。
「源氏物語」が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたころの生活を綴った「紫式部日記」(1008秋~1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる「紫式部集」があり、当時の公家のようすを伝える貴重な遺作となっている。』
出典:【紫式部(978~1016?)の説明板】より
宇治橋(宇治市)
京都駅から
▼JR奈良線で「宇治」(所要時間18~28分)下車
「宇治」から、徒歩10分
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