京都御苑の西側、烏丸通に面した蛤御門から少し南にあるのが「護王神社」である。
ここに和気清麻呂公の銅像が建っている。
和気清麻呂は、奈良時代末期から平安初期にかけての公家で、備前国(現在の岡山県和気町)の出自で、恵美押勝(えみしのおしかつ)の乱での功績により、天平神護元年(765)に、勲六等を授けられる。
その後も順調に位を上げ、従五位下の近衛将監に任じられている。
神護景雲3年(769)に、大宰府の中臣習宜阿曾麻呂(だざいのかんづかさすげのあそまろ)が、称徳天皇に寵愛されていた弓削道鏡に忖度し、宇佐八幡の神託と偽り、道鏡を皇位に就けば天下太平になると奏上をしたのである。
称徳天皇は、その真意を確かめるべく法均尼(和気広虫)を遣わそうとしたが長旅ゆえに、弟の和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わすことになる。
この時、道鏡は清麻呂に対して威嚇と懐柔をするのだが、道鏡の師・路豊永(みちのとよなが)の言葉を聞き意を決して、宇佐から帰ると「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇儲(こうちょ:皇統に連なる人)を立てよ。無道の人は宜(よろ)しく早(すみやか)に掃(はら)い除くべし」と神教を奏上する。
これに激怒した道鏡は、和気清麻呂を大隅国(現、鹿児島県)に配流するのである。
この途中、清麻呂暗殺の追っ手に襲われたが、300頭の猪が現れ難を逃れたという。
神護景雲4年(770)称徳天皇が崩御し道鏡が失脚すると帰京を許され、長岡京、平安京の造営に関わり、多くの土木事業に尽力し、延歴18年(799)67才で没している。
下って幕末の嘉永4年(1851)孝明天皇から正一位護王大明神の称号を与えられ、明治19年(1886)明治天皇の勅命により、護王神社に祀られた。
護王神社は、高尾山神護寺に和気清麻呂を祀った護王善神社に始まるというが、創建年代は分かっていない。
神護景雲3年(769)の道鏡事件の際に皇統を守ったことで、嘉永4年(1851)孝明天皇から神階で最高位の正一位護王大明神の称号を与えられている。
明治19年(1886)に、明治天皇の勅命により、蛤御門前の中院家跡の現在地に遷座されている。
駒札には、
『桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂とその姉広虫を祭神とする神社。
もとは、神護寺境内にあったが明治19年(1886)この地に移された。
広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。
拝殿の前に狛犬のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。
11月1日に亥子(いのこ)祭がある。』
出典:【護王神社の駒札】より
護王神社には狛犬のかわりに猪が置かれている。
これは和気清麻呂公が大隅国(現在の鹿児島県)へ配流の祭に、道鏡から差し向けられた刺客に襲われた時に、どこからともなく300頭の猪が現れ難を逃れたという説と、
皇統をお守り出来たお礼に宇佐八幡へのお礼参りに向う際に、どこからともなく300頭の猪が現れ、八幡宮までの十里の道を案内したという説がある。
このことから、公を救った猪を霊猪と称え拝殿前に雌雄一対の猪が対峙しているほか、境内には猪に因むものが多くあり、いのしし神社とも呼ばれている。
またこのことで、清麻呂公は萎えていた足が治ったといい、護王神社は足腰の治癒のご利益のある神社として、足腰にまつわるお守りやお札が並んでいる。
駒札には、
『この護王神社にお祀りされている和気清麻呂公は、神護景雲3年(769)怪僧弓削道鏡が皇位を奪おうとしたとき、宇佐八幡宮の御神託によってその野望を挫かれた。
そのため公は道鏡の怒りを買い、大隅国(現在の鹿児島県)へ追いやられたが、その途中、万世一系の皇統をお守りできたことに感謝するため、豊前国の宇佐八幡宮へお礼参りに向かわれた。
その時、どこからともなく三百頭もの猪が現れ、公の周りを囲んで宇佐八幡までの十里の道のりを無事に案内した。
そして公が悩んでおられた足萎えも不思議に治ったという。(「日本後紀」巻八)
当神社では、公を救った猪を霊猪と讃え、拝殿前には公の随神として雌雄一対の猪が相対峙している。
そのおかげで、足の病気や怪我に悩む人々をはじめ、旅行安全や災難除けを願う人びとから厚く崇敬されている。』
出典:【和気清麻呂公と霊猪の説明板】より
護王神社(京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385)
京都駅から
▼地下鉄烏丸線で「丸太町」(所要時間7分)下車
「丸太町」から、北へ徒歩7分
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