桂川、西高瀬川、鴨川が合流する辺りの桂川に架かる久我橋を渡り西岸に歩くと、左側に瓦葺の屋根が見えてくるが、ここが誕生寺である。
下鳥羽から桂川を渡った処は、旧久我村(こが)の地で村上源氏の嫡流久我家の所領地だったところであり、曹洞宗開祖の道元禅師の父、源通親の屋敷があったことから誕生の地と云われ、その跡にこの誕生寺が建立されている。

01道元像mid
誕生寺の山門を入ると本堂の正面に、道元禅師幼少像が建っている。
9歳で「具舎論」を読んだといわれ、聡明な顔立ちをした銅像である。
誕生寺は、大正8年(1919)、永平寺の第66世・日置黙仙禅師により、「誕生山妙覚寺」として創建されるが、日置黙仙禅師が逝去すると堂塔伽藍の建立は頓挫し、昭和16年(1941)に「妙覚山誕生寺」と名称を変える。
その後、昭和57年(1982)に道元禅師生誕800年(平成12年)に向け、16年の歳月をかけて本堂などが整備され現在に至っている。

02本堂mid
道元禅師は正治2年(1200)に、ここ久我(こが)の地で生まれたという。(生まれた所は諸説あるのだが・・・)
久我の地は村上源氏を祖とする公家の久我氏が別荘を構えた地であり、寛仁4年(1020)から、鎌倉時代に武士の世となり、徳川が滅びる明治維新まで家計を永らえ、明治を迎えて侯爵に処されている。
余談だが、昭和の女優、久我美子(くがよしこ)は久我家の出身である。

03境内mid
道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)に、内大臣・久我通親(こがみちたか)を父に、関白・藤原元房の娘・伊子(いこ)を母として生まれる。
3才で父を、8才で母を亡くし、建暦3年(1213)14才で、比叡山天台座主公円僧正について出家し、道元と名乗るようになる。
しかし天台教学に疑問を持ち、建保3年(1215)三井寺の後胤(こういん)僧正に教えを乞い、建保5年(1217)建仁寺にて栄西の弟子・明全(みょうぜん)和尚に師事をする。
貞応2年(1223)24才の時に、明全と共に南宋に渡っている。
南宋で如浄(にょじょう)禅師に出会い生涯の師と仰ぎ、5年の修行の後、曹洞禅を会得し安貞元年(1227)28才で帰国をする。
天福元年(1233)京都深草に興聖寺を開き、座禅の教えを広めるのだが、名声が高まり弟子も増えるが、比叡山から弾圧を受け、寛元2年、越前に吉祥山永平寺を建立し、曹洞宗を開くのである。
鎌倉幕府の執権・北条時頼に請われ、鎌倉で武士に座禅の教えを伝えている。
建長4年(1252)54才で、永平寺にて入寂をする。
道元の禅思想を表現した「正法眼蔵」は良く知られている。

誕生寺(京都市伏見区久我本町2-10)
京都駅から
▼近鉄京都線で「竹田」(所要時間5分)下車、市バス特南2に乗り換え「久我」(所要時間15分)下車
「久我」から、徒歩1分