JR六地蔵の駅から8系統の「日野誕生院」行きの京阪バスに乗り、終点で降りると親鸞聖人の生誕地である「日野誕生院」がある。
ここには親鸞聖人が得度した時の童形像があり、その横には、得度式の時に詠んだという
『明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』の石碑があり、幼き日の親鸞聖人の姿を偲ぶことが出来るのである。
親鸞聖人は、皇大后の大進・日野有範を父とし、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘・吉光女を母として、承安3年’1173)この日野の里で誕生する。
親鸞聖人は鎌倉時代前半から中期にかけての僧で、浄土真宗の礎を築いた人物である。
二度の元寇の乱では、念仏により神風を吹かし、日本の危機を救ったとされるのだが、真偽の程やいかに・・・
説明板には、
『親鸞聖人は日野氏一族である日野有範(ひのありのり)を父に、(母は源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)と伝えられている)承安3年(1173)この日野の里でご誕生になり、幼名を松若丸と称されました。
9才のとき粟田口(現在の青蓮院)にてお得度なされ、人間の根源的な苦悩から救われる道を阿弥陀如来の本願に見出されました。
本願寺第19代宗主、本如上人は、文化年間(1804~)に日野氏の由緒地を調査され、聖人の父である日野有範公に因み「有範堂」を建立されました。
その後、第21代宗主・明如上人の時代に、本願寺の飛地境内として「日野別堂誕生院」と改称されました。
なお、境内地西側には聖人ご誕生の際に使用されたと伝わる「産湯の井戸」と、聖人のへその緒を納めた「胞衣塚(えなづか)」があります。
大正12年(1923)立教開宗700年の記念事業として、本堂並びに書院の建築が始まり、昭和6年(1931)には現在の本堂が完成しました。
また、平成18年(2006)には、親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業として、本堂並びに書院の改修が行われました。』
出典:【日野誕生院の説明板】より
JR六地蔵から乗ったバスを終点の「日野誕生院」の一つ手前の「日野薬師」で降りると、法界寺の南、誕生院保育園の東南隅に、親鸞聖人が産湯を汲んだという井戸と、へその緒を祀ったという胞衣塚がある。
日野薬師の法界寺の南、誕生院保育園の東南隅に、親鸞聖人が産湯を汲んだという井戸と、へその緒を祀ったという胞衣塚がある。
この場所は幼稚園の中にあり、平日では幼稚園があり中に入ることは出来ないのだろうが、たまたま日曜日であり、観光タクシーであろうか、こともなげに幼稚園の通用門を開け、お客さんを産湯井と胞衣塚まで連れていったのである。
聖人が生れた時に、産湯を汲んだという井戸が残っている。
井戸の中を覗き見ることは出来ず、今も水を汲むことが出来るのか分からないが、この水で親鸞聖人の産湯が湧かされたのである。
江戸時代の俳人である田上菊舎が、ここを訪ね、
『いく春も 絶ぬうぶ湯の ながれ哉』と詠んだ句碑が建っている。
「田上菊舎(1753~1826)は、長門国(現山口県下関市)に生れた江戸期を代表する女性俳人です。浄土真宗の僧侶となり、親鸞聖人のご旧跡をめぐりつつ、諸国行脚に明け暮れました。晩年、宗祖の御誕生の地に堂宇が建立されるという話を聞き、この俳句と数多くの書画を書いてご報謝しました。堂宇の完成を見ることなく、菊舎は亡くなりましたが、この句碑が建てられたのは、その後まもなくと言われています。』
出典:【田上菊舎句碑の説明書】より
田上菊舎の有名な句に、宇治の万福寺を訪れたときに詠んだ
『山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄』がある。
産湯井の横には、親鸞聖人の「胞衣塚」がある。
胞衣(えな)とは、生れたときの羊幕や臍の緒のことであり、それを祀っているのが胞衣塚なのである。
法界寺の東、日野誕生院の裏にあるのが「日野御廟所」である。
ここは、親鸞聖人の父・日野有範や母の吉光尼をはじめ、日野家歴代を祀る御廟所である。
中央の一段高い所に日野有範を祀る五輪の塔が安置されている。
その境内には、満開の桜が一木みられた。
日野誕生院(京都市伏見区日野西大道19)
京都駅から
▼JR奈良線で「六地蔵」(所要時間20分)下車、京阪バス8系統に乗り換え「日野誕生院」(所要時間11分)下車
「日野誕生院」からすぐ
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