寺町通の商店街が途切れる頃に「本満寺」が見えてくる。
豊臣秀吉の「寺町」以前から、この地にある日蓮宗16本山の一つで、八本山でもある。

01本満寺mid
本満寺は、室町時代の応永17年(1410)、関白・近衛道嗣の子、玉洞妙院日秀により新町今出川に、広布山本願満足寺として創建をされる。
その後、天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失し、一時、堺に逃れるるが、天文8年(1539)に、関白・近衛尚通がこの地に移し、後奈良天皇の勅願寺となる。
宝暦元年(1751)に、35世日鳳上人が、徳川8代将軍・吉宗の病気平癒を祈り、以後、徳川家の祈願所となった。
近世では度々の大火にあい、本堂は焼失するが、都度再建をされ、現在の本堂は明治44年(1911)に焼失をし、昭和2年(1927)に再建されたものである。

02本堂mid
本満寺には、戦国時代に尼子家に仕えた武将・山中鹿之助の墓がある。
山中鹿之助は「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った人物で、時代は戦国、山陰の出雲国の守護代を務めた、尼子氏に仕えた武将である。
尼子晴久の時に、山陰・山陽の八ケ国を治め、安芸の毛利元就と拮抗していたが、永禄3年(1557)に晴久が急死すると、その力は衰えて毛利方に一方的に攻め込まれ、月山富田城を包囲され、山中鹿之助などの奮戦も利あらず、永禄9年(1566)に、開城のやむなしに至るのである。
その後、山中鹿之助など尼子の遺臣は、尼子一族の勝久を擁し、織田信長の庇護を受け、一時的に尼子家を盛り返すのだが、最後は信長に見捨てられ、天正6年(1578)、播磨の上月城に籠るも毛利軍に攻められて、尼子勝久は自害し、山中鹿之助は捕えられ誅殺され、尼子家は滅亡するのである。

03山中鹿之助mid
山中鹿之助の墓とされるものは、全国各地にあるようだが、本満寺にも墓石が建っている。ここに鹿之助の墓所があるのは、宝暦14年(1764)、鹿之助の子孫によって建立されたもので、鹿之助の遺徳が偲ばれる。
墓石の裏には、
『尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子孫山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日当山丗七世日視誌す』
とある。
                   出典:【山中幸盛の墓碑(原文は漢文)】より

04六地蔵mid
山中鹿之助の菩提を弔って、本満寺を後にしようとした折りに、六体の地蔵尊があった。
六体の地蔵それぞれに、衆生救済の願いが込められて、この世でおかした罪状により、六道輪廻の何処に落ちるのかが決まり、その落ちた先で魂を癒してくれるのが、地蔵尊である。
横の石碑には、
『地蔵が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身を考えて六地蔵として信仰するものです。
六体地蔵尊
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道
六地蔵菩薩の御利益
釈尊の滅後、末法濁悪の世に於いて、衆生を済度せよとの大任を釈尊からから受けつがれた仏さまである。今現に六道の能化の仏として大いに化益し給う。延命地蔵経には、地蔵菩薩を拝するものは十種の福を得る。
女人安産・身根具足・諸病悉除・寿命長遠・聡明智慧・財宝豊・衆人の愛敬・五穀豊穣・神明の加護・大菩薩をさとる、これ皆地蔵菩薩の恩徳である。』
                           出典:【六地蔵由来碑】より
とあり、よく見ると六体の地蔵菩薩のお顔が、それぞれ違っているように思われるのである。

本満寺(京都市上京区寺町通今出川上ル2丁目鶴山町16)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『河原町今出川』下車(所要22~26分)
 「河原町今出川」から、徒歩6分

妙傳寺・妙顕寺・妙覚寺・本法寺・頂妙寺・本満寺と日蓮宗八本山の六つまでを紹介したのだが、
本圀寺(ほんこくじ;京都市山科区御陵大岩6)
▼京都市営地下鉄東西線の「御陵」駅から、徒歩10分
立本寺(りゅうほんじ:京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町107)
▼50系統で『千本中立売』下車、徒歩10分
残りこの二つの寺院は訪ねることが出来てなく写真も無いので、これで八本山を於えることとする。