堀川寺之内でバスを降りると、本法寺はすぐである。

01本法寺mid
本法寺の開創や場所について所説あるのだが、永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基にして、東洞院綾小路に造られたのが始まりとされる。
永享12年(1440)、日親上人は時の室町将軍、足利義教に、世の乱れは法華教を信仰しないからだ」と自説を説くが、義教は聞く耳をもたず、寺を焼き日親を獄につなぎ、過酷な拷問を加えるのである。
鞭打ちや石置きなどに加え、焼けた鍋を頭に被せるということまで行い、そのことから「冠鐺(なべかぶり)日親上人」とも呼ばれた」。
その後、足利義教が嘉吉の乱で、家臣の赤松満祐に暗殺されると赦免され、康正年間(1455~57)に四条高倉で再建されるも、寛正元年(1460)、日親は罪に問われ寺は再び破却されるのである。
場所を三条万里小路に移し一門の中心として再建し繁栄するが、天文5年(1536)に、天文法華の乱で焼失、天文11年(1542)、避難先の堺から戻り、一条橋付近に再建するが、天正15年(1587)豊臣秀吉の京都改造にて現在地に移り、今に至っている。

02本堂mid 03手植えの松mid
         本 堂                光悦翁手植の松
本堂の前には、本阿弥光悦が自ら植えたという松がある。またその隣には、長谷川等伯の像が立つ。


04開山堂mid 05経堂mid
         開山堂                   経 堂
天正16年(1588)当山中興十世日通上人の建立せられしものにして、宝蔵と共に天明の災火を免がれ当山最古の建造物の一つなり。(平成10年より410年前)
(額は享保2年本覚院宮の御親筆なり)
                        出典:【経堂に掛かる説明板】より


06説法石mid 07方丈mid
         説法石                  方 丈
灋(ほう)の字が当用漢字にはなく、なんと読むか判らなかったのだが、説法石というらしい。
日親上人が、現在は清明神社のある一条戻り橋の辺りで、この石に傘を立て、それを目印に人を集め、辻説法を行っていたという「説法石」である。
方丈には、本阿弥光悦が作庭したと云われる「三巴の庭」があり、室町時代の書院風枯山水の趣を残しながら、桃山時代」の絢爛の息吹が感じられる庭だという。

08多宝塔mid
本法寺の駒札によれば、
『叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起りという。
はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護をうけて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗総本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。
寺宝には、銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得(かんざんじっとく)画像、長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄なお書二点の重要文化財を所蔵している。』
                               出典 本法寺の駒札

本法寺(京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617)
京都駅から
▼「B1」乗り場から9系統で『堀川寺ノ内』下車(所要28分)
 「堀川寺ノ内」から、徒歩3分