堀河通の「天神公園前」でバスを降り小川通を西にすぐにあるのが妙覚寺である。
日蓮宗八本山の一つで、妙顕寺・立本寺とともに山号が具足山であることから、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。

01妙覚寺mid
妙覚寺は室町時代の永和4年(1378)、四条大宮の檀越(だんおつ:寺や僧にお布施する信者)の小野妙覚の屋敷に建立される。
文明15年(1483)室町9代将軍・足利義尚の命により、二条衣棚に移転する。
天文5年(1536)の天文法華の乱で堂塔伽藍が総て焼失し堺へと避難するが、天文17年(1548)、二条衣棚に戻り再建される。
(天文法華の乱とは、
1536年、天台宗比叡山の僧兵集団が宗教問答を契機に京都の法華一揆と対立し、洛中洛外の日蓮宗寺院21本山を焼き払った事件で、法華宗が栄えていることに反感を持っていた比叡山は、隆盛を誇った法華一揆の壊滅に成功。
以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となった。
                      出典:【日本辞典 天文法華の乱】より

02本堂mid 03二条殿跡mid
         本 堂                   二条殿跡
この当時の妙覚寺は、様々な武将の宿所となっていたが、中でも十九世日饒上人が義弟であった織田信長が定宿としており、20余回の京都滞在の内、18回この寺を宿所としている。
本能寺には僅か3回しか職泊しておらず、その3回目の天正10年(1582)に、明智光秀による本能寺の変が起こるのである。
本能寺の変では妙覚寺には織田信長の長男・信忠が宿泊していて、本能寺に駆けつけようとするが家臣に留められ、守りやすい両替町通御池上るにあった二条殿に入る。
午の刻(正午ころ)に7明智軍1万が二条殿に攻めかかる。
一方、信忠勢は1500ほど、寄手を三度撃退するも多勢に無勢、明智勢が押し入り火を放つのである。
火が迫る中、信忠は自刃して果てるのである。
このことで妙覚寺は焼失しなかたのである。
天正11年(1583)に豊臣秀吉の京都改造で現在の地に移転し、今に至っている。

04大門mid
妙覚寺大門にある駒札によると、
『妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つである。
南北朝時代の13778年、竜華院日実上人により、信徒で豪商の小野妙覚の四条大宮の邸に創建され、その後、二条衣棚に移ったが、豊臣秀吉による大規模な都市改造の際に、この地に移建された。
一時は、本能寺とともに、織田信長の上洛時の宿所とされ、千利休による茶会も催された。
この大門は、寺伝によると、秀吉が天正18年(1590)に建設した聚楽第の裏門を、寛文3年(1663)に移建したものといわれており、西本願寺飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。
城門特有の両潜(りょうくぐり)扉を持ち、梁の上には伏兵を配置できる空虚が設けられている。
建築史上興味深い建物である。』
                         出典:【妙覚寺大門の駒札】より

妙覚寺(京都市上京区上御霊前小川東入ル清蔵口町135)
京都駅から
▼「B1」乗り場から9系統で『天神公園前』下車(所要29分)
 「天神公園前」から、徒歩2分