妙傳時は日蓮宗の京の八本山の一つであり、京都には日蓮宗の寺院は多くあり、銅像の話と少し外れるのだが、日蓮宗の八本山と云われる寺院を紹介してみよう。
「堀河寺之内」でバスを降り、寺之内通を西に二つ目の角を左に入ると、左側に久本寺、大妙院、十乗院、恵命院、本妙院とお寺が並んでいたのだが、その道路の向いに妙顕寺というそれらの寺院よりも少し大きなお寺があった。
この寺はまだ宝鏡寺だと思っていたのだが、位置が違う。
境内に入って、ここが妙顕寺という名の日蓮宗のお寺さんだということが分かった。
相国寺と同じくこの寺も、天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、その後再建されたものである。
相国寺の庫裏と比べるとその規模は随分と小さいのだが、白壁と破風との調和は美しい。本堂もどっしりとした構えで、誰一人いない境内はひと時の癒しを感じることが出来た。
鐘楼も多分に除夜の時には108つの煩悩を打ち払うかのように打ち鳴らされるのであろうが、今はひっそりと耳を澄ませばその音が聞こえてきそうな姿で佇んでいた。
庫裏と本堂をつなぐ渡り廊下ごしに少し西に傾いた陽の光が、木々の緑を一層に青くみせていたのである。
妙顕寺は、法華宗(日蓮宗)であり、洛中で最初に建立されたのが妙顕寺であり、その後、ここを中心として勢力を拡大していくのである。
尾形光琳の菩提所である泉妙院の西すぐに、本山である『妙顕寺』がある。
駒札によると、
『正しくは四海唱導妙顕寺といい、日蓮宗の大本山の一つである。
日蓮聖人の孫弟子に当る日像(にちぞう)上人が、元享元年(1321)京都における日蓮宗最初の道場として創建したのが当寺の起こりである。
建武元年(1334)には、後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨(りんし:詔の趣旨)を受け、法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位に認められた。
しかし、度々の法難と災禍により寺地を転々とし、天正11年年(1583)に秀吉の命により西洞院二条の旧地から現寺地に移された。
その後、天明の大火(1788)で焼失したが、天保5年(1834)に再建され、今日に至っている。
寺宝として、尾形光琳筆の「松竹梅」図三幅などがあり、塔頭の泉妙院には、光琳と陶工として有名な弟乾山(けんざん)の墓がある。』
出典:【妙顕寺の駒札】より
また妙顕寺縁起には、
『当山は具足山妙顕寺と称し、華洛(からく:京都)開教、西日本弘通(ぐずう:教えを広めること)の正導師と讃えられる日像聖人が、元亨(げんこう)元年(1321)12月朝廷より寺地を賜って、開創された関西最初の法華霊場であります。
日像聖人は弘安5年(1282)の秋、宗祖日蓮大聖人御臨滅の池上に於て、年僅か13歳の少年乍懇(ねんごろ)に帝都の開教と、天子元の新教奏上の大事を付嘱(ふしょく:頼み任せること)され、永仁2年(1294)4月28日帝闕(ていけつ:宮城)に開教を宣してより、三度洛外追放の勅勘(ちょっかん:天子から受けるとがめ)を受け乍ら、法華経中心の新宗、南無妙法蓮華経の宣布に27年の忍難弘通の末、遂に祖命を果たされ、建武元年(1334)4月14日後醍醐帝より勅願寺と新宗公許の御綸旨を賜って、廣宣流布の大基盤を確立された宗祖に次ぐ大聖であられ、当山はその嫡流の霊場であります。』
出典:【大本山妙顕寺縁起の碑文】より
妙顕寺(京都市上京区妙顕寺前町514)
京都駅から
▼「B1」乗り場から9系統で『堀河寺之内』下車(所要28分)
「堀河寺之内」から西に、徒歩:5分
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