伏見墨染(すみぞめ)にある日蓮上人辻説法の像。
師団街道を歩き300円の弁当(歩いた当事は300円だった)を売っている店があり、この四辻を東に入り、伏見墨染郵便局の斜め向いにあるのが「墨染寺」である。

01壽碑mid
墨染寺「すみぞめじ」ではなく「ぼくせんじ」と云う(因みにこの辺りは「すみぞめ」と呼ぶ)のだが、創建は意外に古く、貞観16年(874)である。
墨染寺は、清和天皇が発願した貞観寺の跡で、左大臣・藤原基経の遺骨をここに葬った時に、上野峯雄(かんづけのみねお)が喪優の情を
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と和歌に詠んだことから、この地を墨染と称したという。
その後、豊臣秀吉がここを日秀上人道譽に寄進し、寺名を墨染桜寺と改め、堂塔伽藍がそびえ隆盛を誇ったが、寺運振るわず寺は荒れるにまかされたが、第三十七世学妙上人が、これを見かねて復興に努められたのである。
境内に建つ「壽碑」に詳しく
『惟(おもんみる)るに当寺は清和天皇の勅創たる貞観寺(ていかんじ)の旧跡なり。
堀川左大臣藤原基経昭宣公、薨じて遺骨を此の地に殯(かりもがり)したもうや。
上野峯雄哀傷の情を和歌に托して曰く。
「深草の 野辺の桜之 心有らば 今年ばかりは 墨染に咲け」と。
此の地の墨染めの称は(或は此の地を墨染と称するは)蓋(がい)し此の歌詞に因(よ)るなり。
後に大僧都日秀上人道譽頗(すこぶる)る崇(たか)し。
豊公(秀吉)深く之を信じ挙げて此の地を上人寄附して本宗に属し、銘(な)を墨染桜寺(ぼくぜんおうじ)と改む。殿堂高閣にして輪煥(りんかん)の美備わる。
爾来星霜数百年、寺運振わず塚を破り碑を断ち累々として、四方に狼藉する荒涼の状轉(ただ)感慨の情堪えざるなり。
爰(ここ)に第三十七世学妙上人先に宇治直行寺に住し、次いで梅津本福寺に転ずるも夙(つと)に当山の廃類せるを慨き意(こころ)に回復の事(じ)を期し入りて此寺に主となるや乾々赬尾寒暑(けんけんていびかんしょ)にして虚日(きょじつ)なく、復興に是務む。
依(よ)って聊(いささか)か師恩に酬(むく)いんがために寿碑を寺の側(かたわら)に建て日常の微事をきざみて之を伝へて不朽ならしめんと欲し文を余に微(び)す。
余と上人とは同じく達門の流類(るるい)なり敢(かんして)て辞せず。
乃(すなわち)ち上人の行跡を按(あん)じて其の梗概(きょうがい)の系(つなぎ)を叙し、以て銘じて曰く
千載跡遠く 廟影空(ろうけいむな)しく 傾く 乾(ここ)に力を致して 忽ち法城を現す
顕徳測叵(けんとくはかりがた)し 誠の点睛を積むは 維れ労維れ績いさを) 勒(きざ)んで永く 彰旌(あらわす)』
                            出典:【壽碑の碑文】より

02日蓮像mid
また日蓮上人の辻説法の像が建ち、墨染桜寺と云われるように、春には境内に密集した桜の木が一斉に花を開き、見事な景色に一変する。
また境内には「墨染桜」と呼ばれる桜があり、上野峯雄が「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだことから、その桜は以降、薄墨色の花をつけるようになったと云われる。
まだ墨染桜の花を見たことはないのだが、花の色は真っ白で、その後じょじょに墨色になるのだという。

03墨染寺mid

駒札には、
『山号を深草山(じんそうざん)と号する日蓮宗の寺院である。
もとは清和天皇の貞観16年(874)に建立された貞観寺の旧蹟で、その後次第に衰微していったが、天正年間(16世紀後半)増長院日秀上人が豊臣秀吉公の知遇を得、また秀吉公の姉瑞龍尼公の篤い帰依を受けた事により、此の地を日蓮宗の寺として再興する事を許され、墨染櫻寺(ぼくせんおうじ)として再興させた。
境内には、墨染(すみぞめ)の地名の由来となった墨染桜(すみぞめさくら)が植えられている。
この桜の由来は平安時代まで遡り、時の太政大臣・藤原昭宣公が葬られた際、その死を嘆き悲しんだ歌人・上野峯雄が「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだところ、当地に咲いていた桜が喪に服するかのように薄墨に咲いたと云われる。
この薄墨桜によって、当寺は地域の人々から「桜寺」の通称で親しまれている。見頃は4月中旬前後。
本堂の本尊勧請形式は「一塔両尊四士」。
また本堂横の鬼子母神堂には、伝教大師御作と伝わる安産成就・子育成就の子安愛敬鬼子母神像が安置されており、地域の人々をはじめ広く信仰を集めている。』
                           出典:【墨染寺の駒札】より

墨染寺(京都市伏見区墨染町741)
京都駅から、
▼JR奈良線で『東福寺』(所要2分)京阪本線に乗換『墨染』下車(所要10分)
「墨染」から徒歩3分