泉涌寺から5分ほど歩き、来迎院からさらに奥に下に水は流れていないが、赤い「鳥居橋」を渡ると泉涌寺の塔頭である「今熊野観音寺」がある。
境内を入るとすぐに、弘法大師の像と子供がじゃれ合う「子まもり大師」の像がある。
この大師像の周りは、四国八十八ケ所霊場のお砂を敷詰めたもので、「南無大師遍照金剛」と唱え、砂を踏みながら像を一回りすると、四国八十八ケ所を廻ったご利益があると云う。
今熊野観音寺は、平安時代の天長年間(806~833)、弘法大師(空海)が熊野権現より観音尊像を授かり、嵯峨天皇の勅願により、開運厄除の寺として開創されたのが始まりとされる。
のち斉衡年間(854~857)に伽藍や僧坊が造られた。
後堀河上皇は本尊十一面観音を深く信仰され、霊験によって持病の頭痛が平癒したので特に、「新那智山・今熊野」の称をこの寺に送った。
それより頭の観音さんとして知られ病気封じ、知恵授り、所願成就の寺として広く信仰されている。
寺域は昔から、ほととぎすの名所として知られ、近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、泉山七福神の第3番「恵比須神・を奉祀する 。
駒札によると、
『泉涌寺の塔頭で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。
西国三十三カ所観音霊場第十五番目の札所になっている。
空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡(さいこう)年間(854~857)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したとも伝える。
文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。
伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。
本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。
寺域は幽静で、郭公(かっこう)鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔3基がある。』
出典:【今熊野観音の駒札】より
今熊野観音寺(京都市東山区泉涌寺山内町32)
京都駅から、
▼D2乗り場から88・208系統で『泉涌寺道』下車(所要13分)
「泉涌寺道」から徒歩10分
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