京の町には寺社・仏閣が多くあり、それゆえに宗派を開いた僧の銅像が多く建っている。
ここからは、それらを訪ねてみようと思い、まずは真言宗を開いた弘法大師が、四国八十八ヵ所で修行をしたお姿の像が建っている東寺から・・・
弘法大師とは、延喜21年(921)に醍醐天皇より賜った諡号(しごう・おくりな)で法名を「空海」という。
真言宗の開祖であり、嵯峨天皇、橘逸勢とともに、日本三筆のひとりである。
生まれは讃岐の国(今の香川県善通寺市)で四国四県の山林や室戸岬の御蔵洞などで修行を重ね、延暦23年(804)に遣唐使の留学僧として唐に渡る。
唐にての修行に成果を得て、大同元年(806)に無事帰国を果たすと、唐で学んだ真言密教を世に広め、東寺の創設や高野山を開くなどし、天台宗の開祖「最澄」とともに、旧来の「顕教」から新しい「密教」への流れを作ったのである。
空海というよりも、おくり名の「弘法大師」という名が、「空海を超え千年の時を超え」世の中に受入れられ、大師を賜った人は27名に及ぶが、お大師さんといえば「弘法大師」なのである。
空海が修行をした四国の寺々が今、四国八十八ヵ所となり、世の悩める人々を浄土へと導いてくれる。お遍路さんの背中には「同行二人」と何時もお大師さんと道連れで歩いているのである。
東寺は真言宗の総本山で、教王護国寺という。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録をされた。
桓武天皇の延暦13年(794)平安遷都の時に羅城門の左右に鴻臚館をおいて、外国の賓客をもてなす接待の場としたが、嵯峨天皇の弘仁14年(823)に、唐から帰った空海(弘法大師)が東鴻臚館を賜り、これを仏寺に改め真言密教の根本道場とすべく、「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と定め、その造営に当たったのが東寺の起源と云われている。
空海が唐で学んだ真言密教は、当時では新興宗教であったが、平安遷都の新しい時代を生きる人々の心を捉え、教王護国寺(東寺)は京の始まりと共に、今日まで伝わった数少ない平安京の遺構である。
学僧名僧も多く居住し、朝廷、公家、武家の信仰も厚く、中世には多くの寺領も寄せられた。
駒札には、
『真言宗の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
平安京遷都とともに延暦15年(796)、羅城門の東に東国(左京)の鎮護のために建てられたのが当寺の起りで、弘仁14年(823)、空海(弘法大師)に下賜され、名を教王護国寺と改めて真言宗の根本道場となった。
学僧名僧も多く居住し、朝廷・公家・武家の信仰が厚く、事あるごとに祈祷法会が行なわれ、中世には多くの寺領も寄せられた。
創建の後、度々兵火にかかったが、そのつど再建された。
五重塔(国宝)は寛永21年(1644)の徳川家光による再建で、総高約55メートル、現存する木造塔としては我が国再興である。
講堂(重要文化財)内部には大日如来を中心に仏像が安置され、平安初期密教美術の宝庫となっている。
大師堂(国宝)は大師の御影を祀ることから御影堂(みえどう)とも呼ばれ、寝殿造を伝える数少ない遺構としても有名である。
なお、塔、金堂(こくほう)などの配置も古式を示している。
これらのほか、仏像、絵画、工芸、書籍等、多数の国宝を蔵し、仏教芸術の宝庫をなしている。
一方弘法大師に対する庶民の信仰もふかく、毎月21日の大師の命日(ご縁日)は「弘法さん」と親しまれる市が開かれ、数万人の参詣者でにぎわう。
特に12月の終い弘法には、ひときわ多くの人が訪れる。』
出典:【教王護国寺(東寺)の駒札】より
弘法大師修業の像(京都市南区九条町1番地)
京都駅から
▼「C4」乗り場から19・78・42・16系統で、『東寺南門前』『東寺東門前』『東寺西門』下車(所要6~13分)
各バス停からすぐ
▼ 近鉄奈良線「東寺」駅より、徒歩10分
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