坂本龍馬と中岡慎太郎は河原町の近江屋で暗殺され、その亡骸は霊山の地に埋葬されるのだが、二人の墓所にも「坂本龍馬と中岡慎太郎の像」が建っている。

01墓所(1)mid
慶応3年(1867)11月15日、河原町醤油商の近江屋で暗殺された、龍馬と慎太郎はこの霊山の地に並んで葬られている。
霊山の地では誰もがこの墓石を目当てに、足を運ぶ。特に命日である11月15日には龍馬祭が行なわれ、多くの人達が墓前に集り手を合わす。

02墓所(2)mid
龍馬は慎太郎と共に、近江屋の2階で暗殺されるのだが、実はこの暗殺の一部始終を目撃した物が居るのである。
それは京都国立博物館が所蔵している、書や絵が複数枚張り合わされた屏風である。
この屏風は暗殺の現場にあり、屏風の下部には血痕が付着しており、暗殺を今に伝える目撃者なのである。
また霊明神社の古書の中に、龍馬と慎太郎の遺体を霊山の地に実装したという記録が見つかり、龍馬と慎太郎それに下僕の藤吉は間違いなく、ここに眠っていることが判ったのである。

03墓所(3)mid
向かって右が、中岡慎太郎道正之墓、左が、坂本龍馬紀直柔之墓、さらにその左、一段低い所に下僕、藤吉之墓が建っている。
駒札には、
『徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追求が急となり、藩邸の堀内慶助tらの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867)11月15日、午後6時ごろ、中岡慎太郎が訪問。
この二、三時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前頭部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も全身に刀傷を負い、二日後の17日の夕がたに息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の蔭が立ち現れて、「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、ご安心願いあげます。」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬、志士中の一級志士と云っても過言ではない。』
                 出典:【坂本龍馬・中岡慎太郎の最期の駒札】より

04銅像mid
龍馬と慎太郎の墓の横に龍馬と慎太郎の銅像が建っているが、この銅像を拡大したものが円山公園にある銅像である。(いずれも昭和35年(1962)建立)
この像の坂本龍馬は、寺田屋の女将、お登勢が伏見の画家、田中松穂に描かせた肖像画が元になって製作されている。
また、この像が建っているところからは、京の町を一望することが出来、龍馬と慎太郎もここから日本の行く末を見守っているのであろう。

05東山mid
寺田屋の龍馬の銅像の時に、坂本龍馬忠魂碑があると書いたが、この霊山にある碑を基にしたものであり、ここで碑文を取り上げる。
碑文には、
『明治37年2月6日、我邦の露国と交際を絶つや、皇后陛下時に葉山の御用邸に在らせられて、不思議にも御夢に白衣にして袴を穿(うが)ちたる三十七、八歳の男子恭(うやうや)しく御前遥(はる)に跪(ひざまず)き、微臣(びしん:へりくだった語)は坂本龍馬に候が、今回露国と戦端を開かせ給ふとも決して御心を煩はさせ給ふこと勿れ。
微臣も及ばずながら我海軍を護り候へば、我邦の勝利を得ること疑ふべくも候はず。
冀(こいねが)くば御心安く思召し給へと言上すと見給ふや其姿失せたりしかば、陛下には深く龍馬の忠魂を嘉(よ:褒める)みし給ひたりとぞ、其後、兼武(大浦兼武・逓信大臣)公事を以て關西地方に赴き、5月6日山城国伏見町の大黒寺に詣り、文久2年4月寺田屋騒動の難に殉せし薩藩の士有馬新七以下九烈士の墳墓をを展(てん:広く見る)し、又寺田屋の遺跡をも憑弔(ひょうちょう:昔を想い弔う)せしに、6月に至り寺田屋の親戚荒木英一、其義兄寺田伊助の保存せる坂本氏が王事(王室に関する事柄)に奔走中、伊助の母寺田屋とせに与へたる数通の書翰を携へ兼武を東京の官舎に訪へり。
兼武一見輙ち皇后陛下の御夢を思ひ合せ、益事の不思議なるに感じたるまま、陛下に拝謁して右の次第を上聞し、其書翰を御覧に供し奉りたりしに、8月25日に至り皇后宮大夫子爵香川敬三氏より、陛下には御覧済の上深く御満足に思召され、殊に龍馬が国事に尽力し、遂に不慮の難に遭ひたるを御哀悼あらせられ亡霊弔慰の為、金若干を下賜せらるとの御内旨を兼武に伝へられたり。
是に於て、伊助英一感戴拝喜遂に相謀りて一碑を京都霊山に在る坂本氏の墓側に建てむとし、兼武に文を乞へり。
嗚呼皇后陛下が常に国事に御心を煩はさせ給ふことの深きと、王事に殉せしものを御追悼あらせらるるの切なるとは今更申すも畏し。
坂本氏が歿後殆んど40年を経るも、其英魂は今猶国家を守護し、御夢にまで現はれ以て陛下の御心を安んじ奉らむとするに至りては、何ぞ其れ誠忠なるや惟ふに開戦以来我陸海軍の連戦連捷する所以は一に大元帥陛下の御稜威と將士の忠勇に由ると雖も亦安ぞ坂本氏の如き誠忠の士、常に我邦を冥護するにあらざるを知らむや。
感激の餘其顛末を録し永く坂本氏の忠魂を表す。』
                       出典:【坂本龍馬忠魂碑の碑文】より

坂本龍馬・中岡慎太郎之墓(京都市東山区清閑寺霊山町1)
京都駅から
▼「D2」乗り場から86・206系統で、『東山安井』下車(所要19分)
 「東山安井」から、徒歩10分