寺田屋で坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行所の手の者に襲われ、お龍さんの機転で難を逃れ薩摩屋敷に逃げ込んだのだが、その後しばらく薩摩藩邸に匿われていたのだが、龍馬は西郷隆盛らの勧めもあって、手の傷を癒すために薩摩の霧島温泉にお龍と共に向かうのだが、これが日本初の新婚旅行だと言われている。
その旅立ちの像が「伏見みなと公園」に「龍馬とお龍、愛の旅路」像として、平成23年に建てられている。

01京橋mid
宇治川派流に架かる「京橋」の辺りが、伏見の港の中心をなした所であり、多くの船宿があったが、今では、寺田屋がその名残を留めるのみである。
「京橋」を渡り、川の反対側には「伏見みなと公園」という小さな公園がある。
「みなと」の字が平仮名となっているのは、同じ名前の公園がもう一つあり、そちらは「港公園」と漢字で書かれた公園なのだが、どうやらこちらの「伏見みなと公園」のほうが、昔に栄えた伏見の港だったようである。

02豪川mid
京橋の橋の東側に公園となった船溜りが、かつては宇治川派流の水運を利用して、京・大坂からの10石船や30石船で賑わい、西国大名の参勤交替の宿泊地としても栄えたようである。
当時の面影を残すのは、今は寺田屋のみであるが、この寺田屋も鳥羽伏見の戦いで焼けてしまい、今の寺田屋はそれ以降に建てられたのだと言うのが通説となっている。

03旅路像mid
その「伏見みなと公園」の中に「龍馬とお龍、愛の旅路」像と、龍馬とお龍さんとが並んで立っている銅像がある。
二人の像の横に立つ碑分には、
『薩長同盟を締結させた直後の慶応2年(1866)寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は、伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。この時、危機を察知したお龍により命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまれていましたが、右手の傷を癒すため、ここ寺田屋浜から三十石船に乗りお龍とともに、九州の霧島へと旅立ったのです。』
                 出典:【「龍馬とお龍、愛の旅路」像の碑分】より
とあるが、この時に龍馬が負った右手の傷を癒やすためお龍とともに、この寺田屋浜から三十石船に乗り、薩摩の帆船で霧島へと向かうのだが、これが日本初の新婚旅行だと言われている。

「龍馬とお龍、愛の旅路」像(京都市伏見区西柳町)
京都駅から
▼「C4」乗り場から81系統で、『中書島』下車(所要15~22分)
 「中書島」から北に、徒歩6分