京の伏見に「寺田屋」という旅籠がある。
ここにも小さいながら坂本龍馬の銅像が建っている。

01宝来橋mid
寺田屋は、京阪電車「中書島」の駅から北に5分ほど歩くと、豪川に架かる『宝来橋』が見えてくる。
その橋を渡り真直ぐに行くと「龍馬通り」商店街、左に折れると「寺田屋」となる。
寺田屋は、伏見の豪川から宇治川を通り、淀川に出て大坂へと向かう「三十石船」の船着場を持つ、旅人たちの為の船宿だったようで、今もその前には豪川が流れている。
幕末の頃には、薩摩の志士たちが会合をもったり、龍馬の定宿としても知られ、後に妻となる、お龍さんも一時ここに住んでいた。
名の由来は、豪川の寺田浜にあった船宿なので寺田屋の名が付いたと云う。

02龍馬像mid
寺田屋の庭には、小さいながら高知の桂浜に建つ坂本龍馬像と々姿の銅像がある。
坂本龍馬にまつわる逸話として、明治37年(1904)日露戦争開戦直前に、明治天皇皇后の夢に坂本龍馬が夢枕に現れ、日本海軍が勝利すると告げた。
皇后はこれは龍馬の忠魂のなせるものだと褒め称え、偶々、逓信省を訪ねていた寺田伊助に手元金を下賜した。
寺田伊助はこれを記念し、霊山の坂本龍馬と中岡慎太郎の墓前に「坂本龍馬忠魂碑」を建立した。
その複製が寺田屋にも建てられているのだが、この碑文は東山霊山の銅像を紹介する時に譲り、ここでは「寺田屋恩賜記念碑」の碑文を紹介することにしよう。
『山城国伏見町の寺田屋は、昔より淀川船客の旅宿を業とせり。
其第六代の主人伊助の妻とせは、元治元年9月35歳の時夫を喪(もうしな)ひたれとも、引きつゝき家業を営み、且性頗(すこぶ)る義侠(ぎきょう:正義を守り弱気を助ける)に富みたりしかは、当時勤王諸藩の浪士、東奔西走せる際、此家に宿り「とせ」の扶(たす)けを受けたる者も少なからさりき。
文久2年4月、薩藩の有馬新七氏始九烈士の王事に殉したりしも此家にして、世に之を寺田屋騒動とよへり。
殊に土佐藩の坂本龍馬氏は常に此家に潜みて天下の大事を図りたるに「とせ」は厚く之を庇(かば)ひて其偉業を助けたりとそ。
惜いかな明治10年9月7日48歳にて身まかりぬ。
今茲に明治37年2月、我邦の露国と戦端を開かむとするや、其月6日の夜不思議にも皇后陛下、相模国葉山の御用邸にて御夢に坂本氏の忠魂を、認めさせられけることありしか。
其後、余公事を以て關西地方に出張し京都より奈良へ赴く途次、5月6日伏見町の大黒寺に詣り九烈士の墳墓を展(てん:見る)し、又寺田屋の遺跡をも憑吊(ひょうちょう:昔を思い弔う)せしに、其事を伝聞けりとて6月に至り「とせ」の三女「きぬ」の夫なる大坂の荒木英一「とせ」の嗣子伊助か保存せる有馬氏の遺墨を携へて上京し、余を訪ひて其際尚斯(かか)るものもありとて、坂本氏より「とせ」に贈りたる数通の書翰を示せり。
余之を展観するに及ひて皇后陛下の御夢を思合せ益々事の不思議なるに感したるまゝ陛下に拝謁して右の次第を上聞し坂本氏の書翰を御覧に供し奉りたるに、深く御満足に思召され、又「とせ」の義侠(ぎきょう)をも嘉(よ:褒める)みし給ひて、8月25日、皇后宮大夫子爵香川敬三氏を以て余に御内旨を伝へられ、且若干の御賜ありしかは、伊助之を拝戴せり、実に格外の光栄と云ふへし。
伊助感泣の餘(あまり)英一と相謀り、曩(さき)に其旧宅の跡に建てられたる九烈士の碑の側に一碑を建て恩賜の忝きを紀念せむとて、余に文を乞へり。
余乃ち喜ひて事の顛末を記し淀川の清き流れと與に永く之を後の世に伝へしむ
明治三十七年十二月
逓信大臣従三位勲一等大浦兼武撰 御歌所参候正八位大口鯛二書』
                         出典:【寺田屋恩賜紀念碑】より

03寺田屋mid
寺田屋のお登勢は近江大津の旅籠屋の娘で、18才の時に寺田屋伊助の妻となり一男一女をもうけるが、伊助は放蕩者で家業を顧みずお登勢が一人で寺田屋を切り盛りする。
商才にも長け、6人で漕ぐ三十石船を8人で漕がせ、船足を速くしたことで評判を呼んだ。
また人の面倒見もよく、娘の「お力」は、「物見遊山はおろか、芝居一つ見にゆかず、子供の事すら構ってられない程忙しい人でしたが、唯一の道楽は人の世話をすることでした。」と語っている。
お登勢は龍馬より5才年上だが、龍馬は母のように慕い、お登勢も龍馬を可愛がったという。
寺田屋では二つの大きな事件があったが、お登勢はそのいずれにも立ち会っており、毅然とした態度で臨んだという。
明治10年(1877)淀川の水運が衰退するのを見ることなく、48才でこの世を去っている。

寺田屋(京都市伏見区南浜町263)
京都駅から
▼「C4」乗り場から81系統で、『中書島』下車(所要15~22分)
 「中書島」から北に、徒歩5分