木屋町通から高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元、立誠小学校の辺りが、江戸時代の始めから明治4年(1871)まで、土佐藩山内家の京都藩邸があった所である。

01立誠小mid
土佐藩は二十四万二千石の外様で、長宗我部氏が治めていたものを、関ケ原の戦で西軍についた長宗我部盛親に武運なく長宗我部氏にかわり、山内一豊が移封され、明治維新まで16代に亘り土佐を治めることとなる。
ペリー来航当時、ときの藩主山内容堂は吉田東洋を用い、藩政を改革しようとする。
この頃の土佐藩は、東洋の改革派、武市瑞山の勤皇党など尊王攘夷と公武合体が入り乱れ、勤皇党による吉田東洋の暗殺、その後、瑞山の切腹や勤皇党の処分などで藩内が揉め、脱藩者が相次いでいる。
坂本龍馬も中岡慎太郎もこの時期に脱藩している。
脱藩者のなかでは、文久3年(1863)の孝明天皇の大和行幸の先駆けと称し挙兵した天誅組のなかには、吉村寅太郎を頭に土佐脱藩者18名が名を連ねていた。
また池田屋の変では、北添佶磨や望月亀弥太など5名が慙死している。
禁門の変では18名が長州藩とともに戦っているが、その半ばが戦死をし、中岡慎太郎も手傷を負いながらも長州に逃げ帰っている。
なんといっても、近江屋で龍馬と慎太郎が暗殺されたのが、土佐藩にとっては大きな痛手となり、後藤象二郎、乾退助などがいるものの、薩長に一歩遅れをとった形となり明治維新を向えることになる。

02土佐藩邸跡mid
『高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元、立誠(りっせい)小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸があった。
当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。
藩邸が初めて置かれたのは江戸時代で、元禄3年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められている。
藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった。
土佐藩は、薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
なお、この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参拝する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
                     出典:【この付近土佐藩邸跡の駒札】より

03岬神社mid
土佐藩邸跡の横、高瀬川に架かる蛸薬師橋を渡り、蛸薬師通を河原町通に歩くと、右側に「土佐稲荷・岬神社」がある。
駒札には、
『祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と「石栄神(せきえいのかみ)」の二柱(柱は神様を数える 単位)。農耕・商売・土木・金工など諸業の繁栄、火難除けなどの災厄除けにも御利益がある。
社伝では、室町時代初期、鴨川の中州の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされている。その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなった。
一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになる。
以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土神(うぶすなのかみ:地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩邸内に、一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどである。
藩士たちの信仰も厚く、坂本龍馬や中岡慎太郎らも詣でていたと考えられる。
その後,明治維新により土佐藩邸が売却されるとともに、神社も移転を余儀なくされ、その後幾多の変遷を経て現在地に鎮座、大正2年(1913)には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立された。
氏子地域は、北が三条通、南は四条通、東は先斗町、西は新京極。例祭は6月10日。近年、氏子たちの力が結集された崇敬会が発足し、明治10年(1877)から伝わる神輿も修復され、例祭に巡幸する。』
                   出典:【岬神社(土佐稲荷神社)の駒札】より

04龍馬像mid
その社殿の横に坂本龍馬の小さな像が在るのだが、昨年(2009年1月)に見たこの銅像は、原形が分からないくらいに欠けていた。
この像のかけらを持っていると、「願いがかなう」「恋の想いがかなう」ということが噂となり、龍馬さんの像を欠いて持っていく人が絶えないのである。
龍馬さんもこの期になって、とんだ災難を被ったものである。
ところが、今年の初め(2010年1月)に行ってみると、龍馬さんの銅像が新しくなっており、高知の桂浜にある坂本龍馬像の姿で建っていた。
なんぼ「願望成就」や「恋愛成就」するとゆうても、龍馬さんの銅像を壊して持って帰ることだけはせんようにしとうぜや。

土佐藩邸跡(京都市中京区木屋町通蛸薬師西南角)
土佐稲荷神社(京都市中京区備前島町)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
 『四条河原町』下車(所要15~22分)
 「四条河原町」から東に、徒歩3~2分