三条大橋の東側には、高山彦九郎の御所を拝すの像があるのだが、その姿から土下座の像だと思われがちなのだが土下座ではなく、京都御所を向いて望拝(ぼうはい:拝謁)している姿なのである。
高山彦九郎は、江戸後期の人で、まだ幕府の余力が残っている時代に、尊王の思想を持ち全国を回り九州の久留米で自害をして果てたという人である。
その人物が御所を伏し拝んでいる像なのであるが、昭和3年(1928)に昭和天皇の御大典を祝して造られたのだが、太平洋戦争の金属回収令により、昭和19年(1944)に供出され、戦後の昭和36年(1961)に再建された2代目の銅像である。
像の説明文によると、
『江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年~1793年)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
その姿は「大御門その方(かた)向きて橋の上に、頂根(うなね)突きけむ真心たふと」橘曙覧(たちばなあけみ)と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士/気概は高山彦九郎/京の三条の橋の上/遥かに皇居をネ伏し拝み/落つる涙は鴨の水アサノサ と謡いつがれた。』
出典:【高山彦九郎皇居望拝之像の説明文】より
高山彦九郎はまた、林子平と蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と呼ばれる。奇人と書くが、決して世で言う、変人・奇人の変わり者という意味ではなく、優れた・傑出した人物だと言う意味である。
高山彦九郎は尊王の思想家で、林子平は経世論家で、経世論とは広く政治の事を意味し、政治・経済・社会思想などの広範な領域を含んでいて、小平は教育や経済政策など、また海防論などを献策するのだが、受け入れられることはなく、失意のうちに亡くなっている。
蒲生君平は儒学者で尊王論者で、赤貧と波乱にみちた生涯を送っている。出自は町人だが、祖先が蒲生氏郷との家伝から、蒲生君平と名乗った。
君平は高山彦九郎に薫陶し、尊王思想を持ったと言われている。また53才の林子平を訪ねた時に、子平がその身なりを見て「落ちぶれ儒者、その無様さは何だ」と嘲笑すると、「この山師じじいめ礼儀も知らず尊大ぶるな」と踵を返したという。まさに奇人どうしが合い間見えた瞬間であり、双方その意地を通したという感がするのである。
高山彦九郎皇居望拝之像(京都市東山区大橋町三条)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13~20分)
「河原町三条」から東に、徒歩:6分
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