豊国神社の北隣にあるのが「方広寺」である。
この寺のには豊臣家が滅びるきっかけを作った鐘が残っている。

01本堂mid
方広寺は、豊臣秀吉が奈良の大仏に倣い京の地に大仏をと、天正14年(1586)に阿弥陀ケ峰の下に大仏殿を建てるために、高野山の木喰応其(もくじきおうご)上人に造営させたのに始まる。
大仏は高さ19mの木造で金箔を張り、五彩を施した大きな大仏であった。
方広寺の大仏殿は広大で南北88m、東西54mという規模の建物だったようである。
文禄4年(1595)に完成したのだが、翌、慶長元年(1596)に地震によって倒壊してしまい、再建することなく秀吉が亡くなるのである。

02方広寺の鐘(1)mid
秀吉の死後、徳川家康が豊臣秀頼と淀君に、方広寺の再興を進め慶長17年(1612)仏殿・殿堂が完成し、大仏も高さ19mの金銅仏が造られた。
あわせて慶長19年(1614)秀頼は、下野国佐野郷の鋳工に大鐘を造らせ、東福寺の清韓に銘を造らせる。
ところが、同年8月に落慶供養を行おうとしたその時に、徳川家康が梵鐘の銘文について言い掛かりをつけるのである。

03国家安康mid
その鐘の銘文のなかに徳川を呪う不吉な文言があるとして、家康は大仏供養を延期してしまうのである。
それが、かの有名な「国家安康」「君臣豊楽」という8文字である。
家康という文字を分断し豊臣家の繁栄を願い、徳川に対して呪いが込められているとして、豊臣方に対し言い掛かりをつけたのである。 
これに対して豊臣方は弁明に努めるのだが、そもそもが言い掛かりであり何を言っても聞く耳持たずで、大阪冬の陣が始まり続いて夏の陣と豊臣家滅亡へのシナリオが描かれていたのであるが、その発端となったのがこの鐘なのである。

04方広寺の鐘(2)mid
この鐘には淀君の怨みがのり移っており、鐘の内側に淀君の幽霊がでるという言い伝えがあり、この鐘を修学旅行の生徒達であろうか鐘楼の中に入って鐘を見上げていたのだが、鐘の内側に淀君の幽霊は見えたのであろうか。