市バスを「博物館三十三間堂前」で降り、大和大路通を北に5分ほど歩くと、正面通にあるのが『豊国神社』である。
豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社で、慶長4年(1599)に秀吉の遺骸が東山の一つ、阿弥陀ケ峰の山頂に埋葬された時に、時の後陽成天皇から豊国大明神の称号を送られ「豊国神社」として創建された。
御祭神が秀吉公であることから、「出世開運・厄除招福・良縁成就・商売繁盛」を願って訪れる人が多い。
豊国神社はトヨクニと読むのが正しいのであるが、京都の人は親しみを込めてホウコクさんと呼んでいる。
時は移り、元和元年(1615)に豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により徹底的に取り壊され廃寺となり、阿弥陀ケ峰に繋がる参道に、新日吉神社を造り豊臣色を完全なまでに失くしてしまったのである。
しかし時の流れと時代の趨勢は、再びこの神社に光をあて、明治元年(1868)明治天皇により、秀吉が尊王の功臣として、明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡の現在の地に再興されたのである。
その時に、唐門を伏見城から移築をし桃山文化を今に伝えている。
西本願寺の唐門も伏見城の唐門を移したもので、いずれも国宝に指定されている。
鳥居を出て左に行くと、七条通を越えて三十三間堂となる。
正面の小路が正面通でその向こうは鴨川、正面橋を渡り河原町へと出る。
「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことは、夢のまた夢」との辞世を残した秀吉だが、駒札には、
『豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峰に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうたいら))には、広壮豪華な廟社が造営された。
後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。
そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃絶されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。
また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峰の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。
また、両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。』
出典:【豊国神社の駒札】より
コメント