河井寛次郎記念館から渋谷通へと出て右(西)に曲がると、紙巻タバコが日本で最初に作られた工場跡がある。

01タバコ工場の地(1)mid
平成19年(2007)に訪ねた時の写真には、関西テイラーの看板が架かっているが、ここが日本の煙草王といわれる、村井吉兵衛が最書に「サンライズ」と名付けられた、両切りタバコ(缶入りピースのように吸い口にフィルターはなく、紫煙を吸うとタバコの葉が口についてくるのだが、本当の煙草好きは、これが病みつきになるらしい)を作った所である。
それまでは、キザミ煙草で煙管(きせる)に煙草をつめて、一口二口吸って、詰め替えて吸うというのを二三回繰り返して吸っていた。
「みのり」とか「桔梗」というキザミ煙草が売られていたが、何時のまにか目にしなくなってしまった。

02タバコ工場の地(2)mid
村井吉兵衛は、幕末の文久4年(1864)に京都の煙草商の家に生まれ、9才で叔父の家に養子に出され、明治11年(1878)14才で家督を継ぐことになる。
行商で煙草を売り。その金で紙巻煙草の製造を始め、明治23年(1890)、日本初の両切紙巻煙草を製造し「サンライス」と名付けて販売する。
その製造を担ったのが機械館という赤レンガ造りの工場であった。
明治27年(1894)に「ヒーロー」という煙草が販売され、その生産量は日本一であった。
ところが明治37年(1904)に日露戦争が起こると戦費調達の為に、煙草は国の専売となるのである。
以来、日本専売公社として、昭和60年(1985)に民営化されるまで続くことになる。

石碑の横にある碑文には、
『明治23年村井吉兵衛わが国始めて両切紙巻タバコを製造、同32年この地に米国タバコ会社と合同して村井兄弟商会を設立し、その名声は世界のタバコ商として知られる。
明治37年煙草専売法の実施により国営となり、商会の建物は専売局専売公社の京都工場として使用され村井の技術が大いに役立つ。
(大渓元千代著「たばこ王村井吉兵衛」に拠る)
その後、建物は倉庫等に使用されたが廃屋同然の状態で放置された。
昭和22年富田淺雄社団法人関西厚生協会を設立し、この地と建物の払い下げを受けて、その維持保存につとめ今日に至る。
昭和55年3月吉日 社団法人関西厚生協会』
                           出典:【石碑横の碑文】より

03渋谷通(1)mid 04渋谷通(2)mid
平成19年(2007)に訪ねた時には、関西テーラーの看板が掛かっていたが、建築当時の建物が残っていた。
今はと思いグーグル・ストリートビューで調べてみたが、それらしき建物はなく、確か東山税務署の横だったのを思い出し、平成19年に見た同じ場所からの景色を比べてみると、赤レンガ造りの建物はなく、そこには特別養護老人ホーム「修道洛東園」が建っていた。
調べると平成22年(2010)に建て替えられ、平成27年(2015)から、老人ホームになったという。
建物の前にあった「たばこ製造工場発祥の地」の石碑と碑文はどうなっているのか確認は出来なかった。
時の移り変わりは止めようもなく、また一つ明治の遺産がなくなってしまったのである。