嵯峨野の奥の鳥居本から愛宕神社の一之鳥居をくぐり、のぼりの勾配が少し急になった坂を登ると、清滝トンネルの手前にある「愛宕(おたぎ)念仏寺」に着く。
ここまで来ると、さすがに人は少なく嵯峨野の最も西に来たことが実感できる。
そんな嵯峨野の端にあるのが「愛宕念仏寺」である。

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今は嵯峨野の奥にひっそりとした佇まいを見せているのだが、元は東山の愛宕郡の地に建立された愛宕寺(おたぎてら)に始まるという。
この地は、現在の東山区松原通大和大路東入にあたり、今は「愛宕念仏寺元地」と刻まれた小さな石碑を残すのみとなっている。
愛宕念仏寺は、平安京以前の天平神護2年(766)に、稱徳天皇の勅願により松原通のこの地に創建される。
(稱徳天皇:46代孝謙天皇が重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位すること)して、48代稱徳天皇となる)
寺のあった処が山城国愛宕郡といったことから「愛宕(おたぎ)寺」と名付けられた。
愛宕の地は鴨川がよく氾濫し、平安時代の始めには堂宇が流され廃寺同然となってしまったのを、醍醐天皇の命により比叡山の僧・千観内供(伝燈大法師)により復興され、千観がいつも念仏を唱えていたところから、「愛宕念仏寺」と呼ばれるようになったと云う。
その後、興廃を繰り返すが、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

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時は流れて大正11年(1922)に、残った堂宇を現在の地に移して復興を目指すが至らず荒れるにまかされたが、昭和30年(1955)に天台宗本山から、西村公朝住職を迎え復興に取り掛かり、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備し、昭和56年(1981)から、素人が彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」を始め、五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達し、一体一体のお顔が違い、笑っているようなもの、すまし顔のもの、はにかんだものなどとそれぞれ違った表情を見せている。

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愛宕念仏寺の駒札によれば、
『寺伝によれば、奈良時代の764年から770年頃、称徳天皇により、東山区松原通大和大路東入(旧愛宕郡)の地に建立された愛宕寺に始まる。
平安時代の初め、鴨川の洪水により堂宇が流失したため、比叡山の僧・阿闍梨伝燈大法師千観内供によって中興され、等覚山愛宕院と号する天台宗延暦寺の末寺となった。大正11年(1922)、本堂の保存のためにこの地に移築された。
境内には、参拝者によって彫られた千二百体に及ぶ羅漢の石像が表情豊かに建ち並び、和やかな雰囲気を漂わせている。
本堂(重要文化財)は、方五間、単層入母屋造で、度々移建され、補修を加えられているが、鎌倉時代中期の和様建築の代表的遺構である。堂内には、本尊の千手観音像が祀られている。
また、地蔵堂には、火之要慎のお札で知られる火除地蔵菩薩坐像が安置されている。これは、火伏せの神として信仰されている愛宕山(あたごさん)の本地仏が地蔵菩薩であることに由来するとされる。』
                         出典:【愛宕念仏寺の駒札】より