松原橋を渡り川端通から一つ東の通りに入ると、宮川町歌舞練場が見えてくる。
宮川町は京都五花街の一つで、大和大路と川端通の間、南は松原通から北の団栗通まで(宮川筋二丁目から六丁目)の小路にあり、出雲阿国の時代に若衆歌舞伎に始まり、若衆歌舞伎の小屋や茶屋が建ち、10代の少年(陰間)が接待をするという処だったようである。
(陰間:本来は歌舞伎で舞台に出ていない少年役者のことをいい、客に男色を売った男娼)
時代が進むにつれて、江戸時代の宝暦年間に遊郭として認められ、明治・大正・昭和と続き現在に至っている。
その規模は祇園甲部についで2番目である。
通りには三輪の紋章がついたお茶屋が軒を連ねている。
(三輪の紋章は、寺社と町家と花街を表すとも、また宮川での神輿洗いから三体の神輿を表わしたとも、また宮川のみやから三輪としたとも言われている)
出雲阿国からの芝居小屋から始まったこともあって、芸事と深くかかわりを持ってきた宮川町である。
左右にお茶屋さんをみながら、石畳の敷いてある小さな通りを歩くと、そこが宮川町の花街である。
川端通から一つ東の通りに入ると、宮川町の芸を代表する春の「京おどり」の舞台、宮川町歌舞練場がある。
明治29年(1896)に女工場の教場を改築して建設され、対象5年(1916)に現在の歌舞練場が建てられた。
昭和25年(1970)に、第一回「京おどり」が開催された。
ちなみに五花街で行われる春の踊りは、祇園甲部は「都をどり」、先斗町は「鴨川をどり」、祇園東は「祇園をどり」、上七軒は「北野をどり」と踊りの表現は「を」なのだが、宮川町だけが「京おどり」と「お」と表現するのである。
平成18年(2006)から再開された秋の発表会「みすゑ会」が開かれている。
五花街にはそれぞれに舞踊の流派があり、祇園甲部は「井上流」、先斗町は「尾上流」、祇園東は「藤間流」、上七軒は「花柳流」、宮川町は「若柳流」である。
宮川町にも「東山女子学園」という、日本舞踊、邦楽、茶道と芸事一式を習う、いわば舞妓になるための学校があり、入学資格は中学校卒業で、5年間の修学を終えて芸妓となるのである。
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