平家が滅ぶと、源頼朝との関係が複雑となってくる。
後白河法皇は義経を取り込むことで、鎌倉の頼朝と対峙しようと考えるのだが、頼朝は義経が法皇に近づくことを快く思わず、義経に謀反ありとして、義経の追討を命じ奥州平泉で義経を討ち、これをかばった藤原氏をも滅ぼしてしまうのである。
建久元年(1190)、後白河法皇と源頼朝は京の六条殿にて対面をし、朝幕関係に新たな局面を築くことになる。
そしてその3年後に、戦乱で荒廃していた法住寺殿を再建すると、66才で長講堂にて崩御する。
後白河天皇は、まさに政治が朝廷から武士に移り変わろうとする時代の天皇だったのである。
鎌倉幕府は、頼朝が死去すると長男の頼家が二代将軍となるのだが、頼家の後ろ盾の比企氏と、弟の実朝を推す北条氏との対立が起こり、比企氏が滅亡すると頼家は伊豆修善寺に幽閉され暗殺をされる。齢23才であった。
兄頼家が追放されると実朝が三代将軍に就くのだが、頼家の子・公暁により鶴岡八幡宮で暗殺をされる。齢28才であった。
公暁もまた暗殺の下手人とされ追手により討ち取られる。齢20才であった。
これにより河内源氏の血筋は絶えることになり、将軍職は京から親王を迎え、執権として北条氏が実権を握ることとなる。
余談だが、鎌倉幕府の成立は「「いいくに」つくろう鎌倉幕府」と頼朝が征夷大将軍となった1192年(建久3年)だと教えられたのだが、最近は「「いいはこ」つくろう鎌倉幕府」と1185年(元暦2年・寿永4年)に頼朝が守護地頭を各地に置く権限を与えられた時だということで、教科書もこの年を採用しているという。
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