治承5年(1181)に平清盛が亡くなると、平家打倒の気運はいっそう強まることとなり、伊豆では源頼朝が、信濃では頼朝に追われた源行家に頼られた源義仲(木曽義仲)が、平家討伐の兵をあげるのである。

01法住寺殿mid
寿永2年(1183)、倶利伽羅峠で平家の追討軍を敗った木曽義仲は一気に京の都を落とし、平家は安徳天皇と三種の神器を持って西国へと落ちのびるのである。
都に入った義仲は、後白河法皇が期待した都の治安を回復することが出来ず、都の空気にも馴染めずに、後白河法皇と対峙することになり、同年11月に後白河法皇の法住殿を急襲するのである。
法住寺殿の法皇側は大敗をきっし後白河法皇は捕らえられ、摂政・五条基通の五条東洞院邸に幽閉される。

02西八条殿mid
寿永3年(1184)正月20日、木曽義仲は源範頼、義経の軍と戦い近江国粟津にて討ち死にをする。
解放された後白河法皇は、すぐさま平家追討の宣下をだし、2月に一ノ谷の戦いで平家軍を敗るのだが、都の治安や兵站などで平家追討は一時中段される。

03小松谷mid
年が明けた元暦2年(1185)、平家追討が再開され、屋島の平家を攻め、3月に壇ノ浦に平家を追い詰める。
平家は善戦するも義経の船頭を射るという不文律を犯す戦いと潮の流れが変化したことで、最期の時を迎えることになる。
こも時に「波の下にこそ極楽浄土とて、めでたき都の候」と安徳天皇は二位の尼と共に、三種の神器もろとも入水し、平家一門ことごとく海に身を投げ、ここに平家は滅亡するのである。