後白河上皇が院政を再開した頃が平家一門の栄華の絶頂期で「平家にあらずんば人にあらず」と言わしめた。

01法住寺mid
数え年2才(満7ケ月)で即位した六条天皇は平清盛らの思惑で、2年8ケ月後の仁安3年(1168)に、平慈子が産んだ後白河上皇の第七皇子の憲仁親王(80代高倉天皇)に譲位あい、歴代最年少の上皇となるが、数え年13才(満11才)で崩御する。
清盛は高倉天皇に娘の徳子を入内させ、後の81代安徳天皇を産むのである。
この頃に後白河上皇は出家をし法皇となっている。

02鳥羽殿mid
平家討伐の策謀が計られた鹿ケ谷の陰謀が発覚し平重盛が亡くなると、後白河法皇と平清盛との間に不穏な空気が漂いだし、ついに治承3年(1179)11月に、清盛は後白河法皇を法住寺殿から鳥羽殿に幽閉をするのである。

03宝篋印塔midmid
治承4年(1180)に以仁王が平家打倒の旗印を掲げ挙兵をするも平定されるのだが、以降、各地で平家打倒の気運が高まってゆく。
その年に高倉天皇は81代安徳天皇に位を譲り院政を始めるが、すぐに崩御してしまう。
3才の安徳天皇に政事を務どることは出来ず、後白河法皇が再度、院政を執ることとなる。
そんな中、平清盛が熱病に罹り亡くなるのである。
これが平家一門の滅亡への始まりとなるのである。