後白河天皇は平安時代末期、平家や源氏など武士が台頭した頃の、平清盛や源義朝などと共に、騒乱の時代を生きた77代の天皇(在位1155~1158)である。

01崇徳院mid
雅仁親王が、77代後白河天皇として即位するのだが、この即位に反発したのが崇徳上皇で、保元元年(1156)7月、鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇には源為義、為朝、平忠正が、そして後白河天皇には、源義朝、平清盛、重盛がつき政権をめぐる戦いが起きる。保元の乱である。


この戦いに勝利した後白河天皇は3年後に、第一皇子の守仁親王(78代二条天皇)に譲位し院政を敷くのである。

02一本御書mid
二条天皇が即位すると、後白河派と二条派の対立が起り、後白河派の内部でも信西と藤原信頼とが反目をする。
この三つ巴の対立が平治元年(1159)12月に平治の乱を引き起こすことになる。
この戦いで、後白河上皇は源義朝の軍に襲われて、内裏の一本御書に幽閉されている。
この時に脱出して避難したのが、御室の仁和寺である。


平治の乱で、後白河側は信西を、二条派は源義朝など有力武士を失い、対立は膠着状態となるが、ここで平清盛が台頭し政治の中枢に表れるのである。

03清盛公像mid
平清盛が政権を握ると、娘を天皇や上皇に嫁がせ外戚としての地位を確立してゆく。
その一例が、後白河上皇に平慈子を入内させ憲仁親王(80代高倉天皇)を産むのである。
二条天皇が第二皇子の順仁親王に譲位し79代六条天皇となって直ぐに、二条上皇は病没する。
これにより二条派は瓦解し、後白河上皇の院政が再開されることとなる。