平氏や源氏が台頭する時代の政権は、院政清治の時代であった。
後白河法皇を語る前に、院政について考えてみよう。

01院政の碑mid
院政とは天皇に代わって直系の尊属である上皇が政務を行なうという政治形態であり、多くは幼い子を天皇に擁立しそれを補佐するという形で父である上皇が政権を欲しいままにすることである。
院政は白河天皇が応徳3年(1086)に8才のわが子を堀河天皇として即位させ、自らは上皇として、幼帝を後見し政務を執ったのが院政の始まりだとされている。
堀河天皇が嘉承2年(1107)に没すると、その子である鳥羽天皇を4才で即位させ引き続き院政を敷いたのである。
さらに、鳥羽天皇の子崇徳天皇を即位させた後に白河上皇が亡くなるのだが、白河上皇に代わり鳥羽上皇が院政を敷くのである。
鳥羽上皇は崇徳天皇を嫌い、実子の近衛天皇を即位させ近衛天皇が没した後には後白河天皇に皇位を継がせるのだが、この皇位継承を廻って崇徳上皇と後白河天皇との間で保元の乱が起こるのである。
その後も院政は室町時代の承享5年(1433)の後小松天皇が崩御するまで続くのであるが、この白河と鳥羽上皇の時代が院政の最も華やかな時代であり、その文化が花開いたのが鳥羽の地であった。

02白河院陵mid
天下三不如意(加茂川の水・双六の賽の目・比叡の山法師)と言った72代白河天皇が第三皇子の善仁皇子(73代堀河天皇)に譲位し、院政政治が始まるのだが、堀河天皇が29才で崩御すると、5才で74代鳥羽天皇が即位するのだが、引き続き白河上皇が政務を執る院政政治であった。
白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子の顕仁親王に75代崇徳天皇の坐に就かせるのだが、直ぐに崩御し、鳥羽上皇が院政をしくことになる。
鳥羽上皇は崇徳天皇は自身の子ではなく、白河上皇のお手付きになった子だとの疑惑を抱いており、寵愛する美福門院(藤原得子)との間に出来た第九皇子の躰仁親王を76代近衛天皇とするのである。

03鳥羽殿跡mid
ところが近衛天皇が若くして亡くなってしまい、美福門院の次子が幼かった為につなぎとして、鳥羽上皇の第四皇子であった雅仁親王に皇位を継がせ、77代後白河天皇となるのである。
この天皇(上皇)が平氏や源氏と深い係りを持つのである。