治承5年(1181)に平清盛が亡くなると、平家打倒の気運はいっそう強まることとなり、伊豆では源頼朝が、信濃では頼朝に追われた源行家に頼られた源義仲(木曽義仲)が、平家討伐の兵をあげるのである。
しかし行家を庇護したことで、義仲と頼朝との仲は険悪となるのだが、義仲が長男の義高を、鎌倉に人質として差し出すことで決着をする。
一方、平家は平維盛を大将として、北陸に攻め込むのだが、倶利伽羅峠の戦いで義仲の軍に敗れ、敗走するのである。
これに乗じて義仲の軍は京の都まで一気に攻め込み、平家は都を捨て福原へと落ち延びてゆくのである。
都に入った義仲は都の空気に馴染めず、後白河法王と対立することになり、朝廷は頼朝に義仲追討の綸旨をだすのである。
西国で平家と戦っていた義仲の敵は平家ではなく、鎌倉殿となったのである。
大義名分は頼朝側にあり、戦の趨勢は見えており、寿永3年(1184)近江国粟津にて義仲は討ち死にするのである。
討たれた義仲の首は六条河原に晒されたあと、八坂の塔に納められ「義仲の首塚」が立っている。
この時に、巴御前も共に討ち死にを願うも義仲は許さず、巴はその場から逃げ延びたという。
鎌倉殿の13人では、和田義盛の後妻となっているのだが、実の処これ以降の巴御前の生きざまは良く分からないのだという。
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