「髭切」の太刀は、源満仲から3代目の源頼光に引き継がれ、頼光の四天王の一人・渡辺綱が、一条戻り橋で鬼の腕を斬ったことから「鬼切丸」と呼ばれるようになったのだが、そのいきさつをみてみよう。
戻橋の由来は、文章博士の三善清行が亡くなった時に、その子浄蔵が急ぎかけ戻りこの橋で取り縋って泣いたところ、清行が一時生き返り親子の対面が出来たところから、戻橋の名が付いたといい、一条通にあることからこの橋を「一条戻橋」という。
太平洋戦争の時には、無事戻って来るようにとの願いを込めて渡り、婚礼では、戻るとは縁起が悪いと、絶対に渡らない橋である。
また、来世では真人間になるようにと罪人を渡らした。
千利休が、大徳寺三門に自身の木像を掲げ、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、その像が「戻り橋」の畔に晒されるが、その2年後に利休の首も「戻り橋」に晒されることになる。
駒札には、
『延喜18年(918)、文章博士・三善清行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。
浄蔵は櫃にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交したという伝説から戻橋と名付けたという。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子にやつした鬼女に出逢ったという伝説もあるところである。』
出典:【戻橋の駒札】より
一条戻り橋では、源頼光(みなもとのよりみつ又はらいこう:平安中期の武将で、摂津国多田で初めて武士の支配を形成し、その地名から摂津源氏と呼ばれる)の四天王のひとり渡辺綱(坂田金時・卜部季武・碓井貞光の三人と渡辺綱を源頼光の四天王という)が、鬼女に会った話が残っている。
渡辺綱が頼光の使いで一条大宮へ行った帰りの夜半、一条戻り橋に差し掛かると、女がひとり佇んでおり「五条辺りまで送って」と頼まれ、綱はその女を馬に乗せ暫く走ると、「家は都の外だ」と言い、綱が「何処へでも送り申そう」と答えるやいなや、女は恐ろしい鬼の形相に姿を変え、「我が行くところは愛宕山」と言うと、綱の髻(もとどり:まげ)を掴み、西北の空へと飛び上るのだが、綱は慌てることもなく頼光より授かった「髷切の太刀」で、鬼の腕を切り落とし、自身は北野神社の屋根に落ち、鬼女は愛宕山の方へと去ってゆくのである。
この時に、鬼の腕を斬ったのが「髭切」で、そこことにより「鬼切丸」と呼ばれるようになったのだと言う。
後日、その腕を安部清明に見せ吉兆を占ってもらうと「大凶」。
渡辺綱は七日間物忌みが必要で、仁王経を唱え、鬼の腕を封じる必要があるという。
綱は言われたとおり、七日間の物忌み入るのだが、六日目に義母が綱に会いに上洛すると、潔斎を破って義母に会い、清明が封じた鬼の腕を見せるのだが・・・
ところが義母だと信じていた女が、実は腕を切り落とされた鬼女であり、「この腕は自分のものだ」と言うと、その腕を持ち西の空へ飛び去ったという。
後日、渡辺綱は北野天満宮のおかげと神恩を感謝して石燈籠を寄進している。
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