源氏にとって大切なものとして、清和源氏の武士団を形成した源満仲が「世を平にするに相応しい太刀」をと、伯耆国の鍛冶安綱に鍛えさせた二振の太刀である。
一振は、試し斬りで髭まで斬り落としたことで「髭切」と名付けられ、二振目は、首を斬ったところ膝まで斬り落としたことから「膝丸」と名付けられたという。
現在、「髭切」は北野天満宮に、「膝丸」は大覚寺の所蔵になり、7月9日(土)~9月12日(月)まで、両寺社で「永遠に継ぐ源氏の重宝」と題して、同時公開されていた。
「髭切」の太刀は、源満仲から3代目の源頼光に引き継がれ、頼光の四天王の一人・渡辺綱が、一条戻り橋で鬼の腕を斬ったことから「鬼切丸」と呼ばれるようになる。
その後、5代の源為義、6代の源義朝と渡り、源頼朝が平家を倒し鎌倉幕府成立の太刀として源氏の重宝となるのである。
その後、新田義貞、斯波兼頼などを経て、斯波家の子孫・最上家に渡り、明治13年(1880)に北野天満宮に奉納され、現在に至っている。
「膝丸」は、3代目の源頼光に渡ると、頼光が土蜘蛛を退治したことから「蜘蛛切」と呼ばれるようになり、6代目の源為義のときに、平治の乱勃発前の不穏な中、為義は娘婿の熊野別当・教真に「膝丸」を預けるが、教真はその任にあらずとして、熊野権現に奉納するのである。
時は下り、平治の乱で源氏方についた熊野別当の湛増は、源義経に「膝丸」を持参する。
義経は、山深い熊野の山中から持って出た「膝丸」を受け取ると、「薄緑」と名付け守り刀とし、平家との戦いに勝利し、壇ノ浦で平家を滅ぼすのである。
平治の乱が終わり、義経と頼朝との対立が深まり、義経が奥州平泉で自害すると、「薄緑(膝丸)」は頼朝の元に戻ってくるのである。
後、幾多の変遷を経て「膝丸」は、大覚寺の所有となり現在に至るのである。
コメント