後白河上皇が源義経を神泉苑に招いた理由が分かるのは、六孫王神社にあるらしい。
六孫王神社には、京都駅から市バス「C4」乗り場から、16系統で『六孫王神社前』下車(所要10分)徒歩3分で「六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)」に着く。
京都駅八条口(バス乗り場とは反対側)からは、歩いて20分ほどである。

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バスで10分、歩いて20分とはバスが時間が掛かりすぎているが、これはバス乗り場は烏丸口で、八条通に出るのに高倉通でJRの線路越えなければならず、その分時間が余計に掛かるのである。
京都駅八条口からは八条通を西に、新幹線の高架に沿って1,300mほど歩くと六孫王神社に着く。
バスも同じルートを走ることになる。

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六孫王神社は「清和源氏発祥の宮」と云われ、源経基を祀っており、経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子で天皇の孫であったが、臣籍降下(しんせきこうか:皇族の身分を離れ姓を与えられ臣下に降ること)した人物で、元は皇族であった人物である。
経基が天皇の六男の孫ということから、六孫王と呼ばれ、「六孫王神社」と名付けられたという。

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六孫王神社には、
「雲井なる 人をはるかに 思ふには わが心さへ 空にこそなれ」
「哀れとも 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに」
と経基が詠んだ歌碑が立つが、この地は元々、経基の屋敷があった場所で、経基が「死後は龍神となりてこの池に住み、子孫の繁栄を願わん。この地に葬れ」との遺言により、経基の子、源満仲が社殿を建立したのが始まりとされる。
源満仲が清和源氏の武士団を形成したことから、この神社を「清和源氏発祥の宮」と称している。
その後荒廃したのだが、元禄13年(1700)に遍照心院(大通寺)の南谷上人が再建をしたのが、現在の社殿である。
本殿に源経基、相殿に天照大神、八幡大神が合祀されている。

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駒札には、
『この神社は清和源氏の祖と仰がれる六孫王源経基(つねもと)を祀っている。
神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲(みつなか)が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。
その後、いつしか荒廃していたものを、元禄13年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人(当時の能筆、作庭家)が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮守とした。これが現在の社殿である。
本殿に経基、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。
本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で、神廟といわれる。
境内北の弁天堂内には満仲誕生水がある。古くから京都名水の一つとされている。
江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったことは、境内石燈篭に松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。』
                         出典:【六孫王神社の駒札】より

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鎌倉幕府に始まり、室町、江戸と続く武士政権の幕府は、いずれも清和源氏を名乗って将軍に就いている。
「鎌倉殿13人」では、もうすぐ承久の乱が放送されるのだが、天皇家(後鳥羽上皇)と武士集団(北条義時)が戦い、武士集団の勝利となるのだが、この時に北条義時は後鳥羽上皇に繋がる人々を配流したのだが、天皇制を廃することはしなかったのである。
推測するに、鎌倉幕府の祖は臣籍降下した皇族の一員であった清和源氏の源頼朝であり、それを無くすことが躊躇われたのではと思われるのである。
しかし歴史は恐ろしいもので、天皇制を残したことによって140年後に、後醍醐天皇により北条鎌倉幕府は滅びさるのである。